AFFECTUS No.202
ファッション界独自のシステムの一つに、ファッションショーがあげられる。新商品発表の場以上の意味を持ち、デザイナーの世界観が視覚化されたファッションショーは心揺さぶる多くの感動を生んできたエンテーテイメントでもある。
近年僕が最も好きなショーは、ステファノ・ピラーティ(Stefano Pilati )が自身のブランド「ランダム・アイデンティティーズ(Random Identities)」のデビューコレクションを披露したショーだ。2018年11月、ショーはカナダのモントリオールで行われる。発表の舞台となったのは、オンラインセレクトショップ「エッセンス(SSENESE)」本社内にあるオフィスフロアだった。
先週、久しぶりのそのショー映像をYouTubeで視聴する。
美しかった。
やはりこのショーに対する僕の印象は変わらない。整然と並ぶデスクとパソコン。普段はオフィスで働くエッセンスのスタッフたちが、日頃座っているキャスター付きの椅子に腰を下ろしながら、ステファノ・ピラーティの新ビジョンを静かに美しく、時折高らかに鳴り響く男性ヴォーカルとピアノの演奏を背景に眺めている。
ショーの演出自体に特別さはまったくない。極めてシンプルなショー。けれど、僕はこのショー映像を観ていると美しさが迫ってきて、襲われる感覚に心地よさを実感する。いつもなら働く場であり、美的感覚の陶酔に浸ることがないであろうオフィスという空間が、ピアノとヴォーカルのシンプルな演奏と、男女のモデルたちがステファーノ・ピラーティのデザインする服を纏い歩く姿によって、美しさを実感させる場へと変貌している。
今、新型コロナウィルスの感染拡大によってファッションショーの開催は不可能になった。多額の資金を要するショーの意味も問われていくだろう。ショーを新商品発表の場とだけ捉えるなら、今後は大きな意味は持たないし、開催する意味もない。だが、冒頭で述べた通りショーには新商品発表だけにとどまらない意味を持っている。僕はそのことを、ランダム・アイデンティティーズのデビューショーから改めて学ぶ。
ショーはデザイナーのビジョンを示す場である。デザイナーがこれからの世界に、どのような人間とその人間が生きる姿をビジョンとして示すのか、そのことを世界に発表し、伝える場。それがファッションショーというエンターテイメントが持つ意味である。
ショーには観る者の心を揺さぶる力がある。コロナと共に生きる世界、コロナ以降の世界では、これまでのような一つの会場に多くの人々を集め、多くのモデルたちがランウェイを歩くショーは開催不可能なのは確かだ。しかし、ショーの発表方法は一つだけではない。かつてヘルムート・ラング(Helmt Lang)は、リアルな場でショーを開催することが当たり前であった1998年に、事前に撮影したショー映像をインターネット上で公開し、それを持って新コレクションの発表とした。
今や日本屈指の人気ブランドとなったハイク(HYKE)も、2013AWデビューコレクションをショー映像としてインターネットに発表する。一人の女性モデルが最新ルックを纏い、何度も登場する。カメラはモデルの歩く姿を、正面だけでなく、横から斜めから後ろからと様々なアングルから捉えていく。映像から聴こえてくる音楽はヴォーカルのないシンプルなメロディ。簡素な美しさを感じる映像であり、僕はこのショー映像がとても好きだった。
世界を混乱に追い込むウィルスの影響がいつ終わるか、それはわからない。しかし、人々が永遠に室内に留まり生活していくことは不可能である。人間は生活の糧を得るために活動しなければならない。その時が訪れた時、限られた人数のスタッフによってショー映像を制作し、インターネット上でショーを発表する手段を選択することは、新時代のアプローチとして可能性がある。
ファッションデザインは服をデザインするのではなく、人々の生活をデザインするもの。僕はランダム・アイデンティティーズのショー映像を観ていると、そう実感する。その服を着用し、どんな生活を送るのか。ファッションデザイナーは人々の生活をデザインし、それを新ビジョンとして服を通して伝えていく。服という人間の生活に一日中欠かすことのできないプロダクトを用いることで。
ファッションショーは果たして本当に無意味で無価値だろうか。そう思うなら、新しい意味と価値を持つにはどうしたら良いのかと、思考のレールを切り替えるのはどうだろう。これからの時代に向けたファッションショーを実現するために、その方法を考えてみよう。ショーを無意味で無価値とするには、ショーの持つパワーはあまりに大きく力強い。人間には心が高鳴る体験が生活において必要であり、ショーにはそれを実現するだけのパワーがあるのだから。
〈了〉