アンリ・カルティエ=ブレッソンのような服

AFFECTUS No.1

ファッションについて書くと言いながら、スタートからファッションとは関係ない話になってしまう。けれど、この体験が自分のファッション観に大きな影響を与えていたんじゃないか。最近そんなことを思い始めた。

自分に大きな影響を与えるものに出会ったことが、そのときは明確に気づくことはできず、後々になって出会いの重要性に気づくことがある。そして、重要性に気づいたなら、そのとき自分は何を感じたのか、その感じたことをすくい上げることが大切なのではないか。そのことを、僕はここで実践したいと思う。

僕が大きな影響を受けたと後年気づいた出来事は、東京の竹橋にある近代美術館で行われたアンリ・カルティエ=ブレッソン(Henri Cartier-Bresson)の回顧展を見たことだった。

 近代美術館でアンリ・カルティエ=ブレッソンの回顧展が行われたのは2007年6月で、今から9年前になる。美術館へ到着し、受付でチケットを渡して会場へ入ると、想像を超える大規模な展示に僕は驚いた。

「こんなにデカイのか……」

写真好きにとってアンリ・カルティエ=ブレッソンは、知らない人間はいないと言ってもいいぐらいの歴史に残る巨匠だ。しかし、大々的に取り扱われることの多い印象派の画家と違い、いくらアンリ・カルティエ=ブレッソンとはいえ、ひとりのフォトグラファーの作品をこれだけ大規模に見られる企画展が日本の美術館で行われるのは稀で(現代美術館でティルマンスの展示があったりもしたが)、今ではその機会を作ったこの美術館は表彰されてもいいぐらいではと思う。

当時の回顧展で展示されていたのは写真だけではない。アンリ・カルティエ=ブレッソンのデッサン(晩年、彼は写真より絵を描くことに情熱を注いだ)や、ニューヨークのジュリアン・レヴィ・ギャラリーで行った自らの個展のインビテーション(これが非常にカッコよかった)、マティスが装丁をデザインしたことで有名な『決定的瞬間』(今では記憶が不鮮明だが、おそらくあったように思う)など、貴重な資料が大量に展示されていて、その規模に僕は圧倒された。

もちろんそういった資料が見られたことは純粋に嬉しかったが、僕がいちばん楽しみにしていたのはやはり写真で、何度も写真集で繰り返し見てきた写真だったが、それでも楽しみにしていたのは事実だった。だが、楽しみにしていたはずの写真を実際に目の当たりにし、僕は自分でも意外に思う感想を抱いてしまった。

「たぶん、なんとも思わないんじゃないか」

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見た瞬間、胸が熱くなり高揚感に身体が包まれる。そんな体験をした人間が、あの展示を訪れた人々の中にいったいどれだけいたんだ?きっとその数は少ない。そう直感した。私自身がそうだった。好きなはずの写真を見ているにもかかわらず、熱い感動とは無縁だった。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真は地味だ。異論はあるだろう。だけど、少なくとも僕はそう思っている。僕の好きなアーウィン・ブルーメンフェルド(Erwin Blumenfeld)やリリアン・バスマン(Lillian Bassman)といったフォトグラファーと比べればよくわかるし、ラリー・クラーク(Larry Clark)みたいに若者の性が眼前に晒し出されているような生々しさや、ハンス・ベルメール(Hans Bellmer)が自ら制作した奇妙でグロテスクな人形を撮影した写真のような、ああいった一見するだけでその写真を見た人間の理性を掻き乱す遠慮のない力強さはない。

「あまりに普通過ぎる」

初めてアンリ・カルティエ=ブレッソンの写真をあの回顧展で見た人がいたなら、次のように思ったとしても不思議ではない。

「これだったら、自分でも撮れるよ」

期待していた感動を味わえず、僕はモヤモヤした感覚で写真を眺めていた。けれど、そうして長い時間をかけてようやく辿り着いた会場の出口に、僕は背を向けていた。今度は、入り口まで同じ時間をかけて写真を眺めて戻ろうと決めた。

そしてそれを三度、僕は繰り返す。そうやって呆れるぐらいに時間をかけてようやく自分の中に甦ってきた。一見するだけですぐさま高揚するような興奮ではなく、徐々に少しずつ、諭されるように納得してしまう興奮が、身体の深いところから沁み出してきた。

「これだ」

気がついたら好きになっていた。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真はいつもそうだった。

人がなんと言おうと「一瞬で好きになっていた」という言葉に僕は頷くことはできなくて、僕にとっての「本物」は時間がかかって好きになれたものだけだった。目を凝らして見ることで気づくことができる、よくこんな瞬間を逃さなかったと驚かされる人間の表情と余白のバランスと絶妙な構図が、時間をかけて訴えてきた。唸ってしまうセンスの凝縮があまりにさりげなく、私ではすぐに感じることができなかった。そういう類の面白さがあることを僕に教えてくれたのが、アンリ・カルティエ=ブレッソンだった。

当時抱いたあの感情を、アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真を見るたびに甦る。

「世の中にこういう類の面白さがあったのか」

何年も経って自分を取り巻く環境が変わっても、それでも変わらないものが胸の奥底に今もあった。

やっぱり僕はアンリ・カルティエ=ブレッソンが好きなんだ。そして、その感覚はファッションにも染み込んでいた。僕は大きなインパクトを感じる服が苦手だ。学生の時に作っていた服もシンプルな作品が多かった。「見てみて、どうなっているかわからないパターンの服を作りなさい」と言われても、そういう服には苦手意識が出てしまう。

作りが複雑な服が必要とされる時代や瞬間はあるだろうし、好きな人ももちろんいるだろう。そういう服の存在意義を否定するわけではない。でも、僕が好きになる服は違っていた。どこかで見たことのある服、けれど今まで見たことのある服とは何かが違う。すべてが新しい服よりも、何かが新しい服が好きだった。

僕がラフ・シモンズ(Raf Simons)のデザインするウィメンズが好きなのも、それが理由だった。シモンズのウィメンズは、初見では見慣れた伝統的なシルエットの服なのに「そんなところにそんなボリュームや切替えを入れなければ綺麗なのに……」と違和感を感じることが多い。けれど、時間が経つとその違和感が気になって、そして次第にその違和感はこれまでにはなかった魅力に感じられて、気がつくと好きになってしまっている。

見慣れた、ありふれた服であっても視点を変えて見れば、そこにはこれまでとは違う魅力があり、何気なく見える普通にも魅力は潜んでいる。その感動は決して一瞬で感情が高ぶる感動ではないけれど、ありふれた毎日を彩るには十分な心地よさがある。そして、僕はそれが最も楽しい。

僕が服を作りたいのも、好きな服を作りたいという思いはもちろんあるけれど、それだけでは動機が弱すぎる。何かの活動を強い決意で行う、あるいは続けていくには「好き」という動機は意外と脆い。「好き」を超えた何か。それが自分にとっては、普通の中に潜む美しさを見つけ、その美しさを服にのせて世の中に伝えていくことなのではないかと思えた。こういう楽しみだってあるのだ、きっとその楽しみに救われる人もいるのではないか、と。アンリ・カルティエ=ブレッソンの写真のような服。もし、普通の服なのだが、どこか特別を感じる服が作れたならと思う。

服を作り続けていけば、その答えはまた変わるかもしれないし、まだその答えを捉えきれていない感覚はある。ただ、今はそんなふうに感じている。普通の写真を撮る天才は、普通の中に潜む楽しみを教えてくれた。ありがとう。

〈了〉

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