AFFECTUS No.39
昨年2016年6月、経済産業省が発表した『アパレル・サプライチェーン研究会報告書』によると、日本国内の衣料品市場規模は1990年には15兆円あったが、2010年になると10兆円にまで縮小し、以降9兆円から10兆円と横這いで推移していた。その一方で、国内生産と輸入品を合わせた衣料品の国内供給量は、約20億点から約40億点へとほぼ倍増。今は、かつてより服が売れていないにもかかわらず、服の生産量は増大しているという時代だ。
ファストファッションが登場し、セレクトショップがオリジナルに注力し始め(ファストファッションに比べ、この影響について語られる例が少ない気がする)、人々は少ないお金でデザインに優れた服を数多く手に入れられるようになった。お金をかけずにオシャレを楽しめるのが今。また、そのことに価値があると認められている時代でもある。
ファッションが担っていた自己表現は、SNSが代替するようになり、それがファッションの魅力を減退させたとも言われる。デザイン性が強く、商品価格が高いモードブランドにお金を使う人間は、今や希少だ。おそらくモードな服を買う人々の数も、2000年代に比べ2010年代の今はかなり減っているように思う。
ファッションは消費の中心ではない。かつてのようにファッションが時代に与える影響も少なくなった。ファッション業界への就職を目指す若者の数も減っている。ネガティブが、ファッションにはあふれている。そういう時代だからなのか、僕がファッションを好きになり、モードの世界へとハマり始めた1997年ごろには耳にすることが少なかった(あるにはあったが)「服にお金を使うのはダサい」「今時、ファッションにはハマるなんてカッコ悪い」という言葉が顕著に聞こえてくる。
ファッションを楽しむ人は、ダサくてカッコ悪い。そう言われているような気分になる。しかし、そんな時代にあっても、僕のファッションへの気持ちは決して変わらない。ファッションは僕にとって最高の娯楽だ。
だから、話したいと思う。
ここで述べたいのは、僕という人間が、服を着ることの「どこ」に面白さを感じていたのか、なぜこんなにも夢中になってきたのか、その心の在り処を探っていく過程であぶり出される、極めて個人的な感情である。
ファッションの魅力、それをここで僕は「服の着ることの面白さ」として話していきたい。
服を着ることの面白さの興奮がもっともピークに達するのは、服を着た自分の姿を鏡で見たときだ。なぜ鏡で見た自分の姿に面白さを覚えるのか。それは想像を裏切られる面白さが、現実に形として目の前に現れたからである。服はハンガーにかかっているときと人間が着たときでは、その様相が一変することがある。ハンガーにかかっているときはカッコよかったのに、着てみたらイマイチだった。その逆もしかり。
服は人間が着ることで完成するプロダクト。これは世の中で、かなり希少な部類のプロダクトではないだろうか。服は、人間が自身の身体にまとうことでしか最大の面白さを体感できない。そして、服を着る面白さは服と服を掛け合わせること=スタイリングで、その魅力を倍増にも半減にもする。
ジーンズに合わせるとカッコよかったブルゾンなのに、チノパンに合わせたら変だった。そのような体験をしたことがあると思う。服は単体では面白さが成立しない。服は服を必要としている。コート、ジャケット、シャツ、ニット、パンツ、スカート、いろんなアイテムがあり、それらのアイテムはデザインによって相性のいいパートナー=服が入れ替わる。様々な服の中から、自分の感覚に頼ってその日その瞬間着ては脱いで、これだと思えるスタイルを探っていく。とてもリスキーなゲームだ。
服を着ることを楽しむ上で外せない要素が、少なくともあと二つある。
一つ目はトレンドだ。服を着ることは時代を着ることでもある。トレンドはファッションにおける時代の価値観を表したもので、トレンドは軽視されるものではないし、蔑視されるものでもない。ファッションデザインの歴史の連なりと言い換えることができる、とても重いものなのだ。トレンドによって、同じ服であっても着る時代によってカッコ悪くもカッコよくもなる。去年は着ていてカワイイと思ったのに、今年はなんだか着るのがためらわれる。そんな現象が往々にして起きる。
今のトレンドの一つであるビッグシルエットを、シンプルなデザインであるミニマリズムが全盛の1990年代に着ていたら、奇異に映るだろう。あるいはエディ・スリマン(Hedi Slimane)全盛の2000年代前半に、ドロップショルダーのジャケットやブルゾンを着ていたらカッコよくは見えないだろう。当時の僕自身、肩幅にフィットしないシャツやジャケットは着たいとは思えなかったし、ダサさを感じていた。けれど今は違う。ドロップショルダーがありなのだ。
トレンドは歴史の言葉だ。その言葉を自分なりに解釈し、どのようにどのくらい取り入れ、自分の言葉として練り上げ提示するか。そのセンスが問われる。ここでもう一度言いたい。ファッションにおいてトレンドは、軽んじられるものでも疎まれるものでもない。その時代におけるファッションの価値を左右する、極めて重要な要素だ。トレンドにどこまで近づき、どこまで遠ざかるか。トレンドに沿うのか、それともトレンドの先をいくのか。その距離感のせめぎ合い。まるでシーソーゲーム。
そして、もう一つのファッションの価値を決める要素が身体だ。世の中には人間の数だけ体型の数がある。体型によって「着られる服・着られない服」「似合う服・似合わない服」が生まれてくる。人の着ている姿を見てカッコいいと思った服なのに、自分が着てみたら首を傾げてしまった。そんな現象が示すように、身体が服に与える影響はとても大きい。
身体は服を着る上でのルールとなる。とても制約の多いルールだ。制約の中で必要とされるのは創造性。脱いでは着て、着ては脱いでを繰り返し、自身が満足できる魅力的なスタイルを見つけなくてはならない。厳しい制約の中で、創造性を発揮する。ファッションは、とてもクリエイティブなゲームと言える。
僕はここまで「ゲーム」という言葉を意識的に多く使っている。
「ファッションはアートだ」
そんなことを言いたいわけではないし、ファッションはそんな大げさなものでもないだろう。ただのゲームだ。感覚的に気軽に楽しめる遊びで、生活する上でなくても困らない。しかし、ファッションという名の遊びを楽しむとなると、必要になってくるのは想像力と創造性。その二つを「トレンド」と「身体」という制約の中で表現するスキルが求められる。そのスキルを発揮する喜びを「全身」で体感でき、刺激的かつ興奮を覚える遊びだ。
同時にファッションは映像作品でもある。想像力と創造性を発揮した作品は、観賞することで初めて楽しくなる。
服を着た自分の姿を鏡で見る行為があって、初めてファッションの体験が完結するのだ。つまり、ファッションの面白さを人間が自分で体感できるのは、鏡の前に立ったほんの数秒だけということになる。鏡の前を去ったら、後はその面白さの余韻に浸るだけ。鏡の前に立った時のみ観られる短い映像を楽しむ。わずか数秒のショートショートムービー。そんな映像作品を作ることが、服を着る行為である。数秒の楽しみのために、お金と時間を使う。それだけ聞くと、狂気の沙汰に近い。けれど、狂気は人間を魅了するものだ。
冒頭で僕は、ファッションが時代に与える影響力は少なくなったと述べた。しかし、本当にそうなのか。
街中で、MA-1や手首を隠すほど極端に袖が長い服や、オーバーサイズのシルエットを着ている人たちの姿を目にすることが多い。間違いなく「ヴェトモン(Vetements)」から始まった流れだ。ヴェトモンのことを知らなくても、ヴェトモンから派生したこのスタイルを、好きだと思っている人はきっといるだろう。
ファッションには街の装いを変える力がある。目にする街の風景が変われば、変わった風景から影響を受ける。目にするものからの影響を逃れることは、非常に難しい。フラットデザインが生まれ、人々のウェブに対する感覚を変えたように、街の風景が変われば、人間の感覚は変わり、感覚が変われば人間の行動は変わる。ファッションには、まだまだ時代を変える大きな力があるのだ。
僕にとって服を着ることは、創作行為とも言える。「トレンド」と「身体」という制約の中で、想像力と創造性の限りを尽くす創作行為であり、日常の暮らしを気持ちよく感覚的に手軽に楽しませてくれる映像作品でもあり、想像の外側の想像へたどり着く面白さを教えてくれる、自身の身体を使って遊ぶ何百年(何千年?)も続けられてきたゲーム。それが僕にとってのファッションだ。
僕には、ファッションを楽しんでいる人は、自らの想像と創造を日々楽しんで磨いている人に見える。ときには、服が生んだスタイルでユーモアだって提供してくれ、心地よく楽しませてくれる。僕がファッションに熱くなり楽しむことを「カッコ悪い」「ダサい」と思えるはずがない。ファッションを楽しむことは、カッコいいことだ。ファッションを楽しんでいる人はダサくない。カッコ悪くないんだ。服を着ることは、自己表現のツールというより、自身の想像力と創造性を楽しむゲームである。僕にとってファッションはそういうものだ。繰り返し、しつこく何度でも言おう。ファッションとは、想像力と創造性を楽しむゲームなのだ。
「その服いいね」
「でしょ」
さあ、今日もゲームを楽しもう。
〈了〉