リック・オウエンスとコム デ ギャルソンのアプローチ

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AFFECTUS No.46

「抽象造形が、これからのファッションで価値を生むにはどうしたらいいのか」

今、ファッションデザインではリアルであることが重要になっている。そのトレンドの中で、散見されるデザイン手法が「スタンダードのモード化」だろう。

具体的には、トレンチコートやジーンズといった誰もが思い浮かべる匿名性の高いスタンダードアイテムをベースに、素材やシルエット、ディテールなどスタンダードアイテムを構成する要素の中からいくつかポイントを絞り込み、その焦点を当てた要素に大胆な表現を施して強いデザイン性を持ち込む。そんなデザイン手法である。

代表的な例でいえば、ヴェトモンのビッグシルエットや誇張されたショルダーラインだろう。絞る要素は、服だけに留まらない。ゴーシャ・ラブチンスキーはスタイルという要素に絞った好例で、彼はスタイルにポイントを置き、「ダサさ」を大胆な表現として取り入れた。

そのような時代にあって、モードシーンでかつて(時には今も)見られた「これはコートなのか?ドレスなのか?」「いったい誰が着るのか?」「どこで着ればいいのか?」「そもそもこれは服と呼んでいいのか?」と見る者に混乱を招く抽象造形の服は、たとえインパクトはあっても、そこには新しさが感じられなくなってきた。言ってしまえば古くさく見える。

なぜリアルが重要なのかは、前回のタイトルで述べた通り、ウェブの進化とSNSの登場により、人々が自身の価値観に共感できるものを何よりも重視するようになった価値観の変化が理由だと僕は考えている。そのため、一つのカテゴリーに縛られることなく、自身の価値観に共感できるものなら自由に行き来してピックアップして、日々の生活に取り入れていく。そんな生き方がごく自然に行われている。

服を着ることは時代を着ることでもある。時代が変われば、人々が惹かれていく服も変化していくのは必然だ。そして重要なのはノームコアを経たということである。あのシンプルスタイルの価値観をくぐり抜けて到達したのが、現在になる。ノームコア以降の世界では、リアルがさらに重要になっている。

ノームコアが終わってモードが復権=デザイン性の強い服がトレンドになるという声もあったが、実際のところ、90年代モードのような全身でデザインの強い服が各ブランドから発表されているわけではない(Yプロジェクトは王道モードだが)。主流となっているのは、冒頭で述べた通りスタンダードアイテムをベースにブランドなりの視点で「スタンダードをモード化」するデザインである。

僕が思うに、かつてのような濃厚なデザイン性を持つモードが受けるのは世界のごく一部の限られた人間だけになるだろう。それほど、時代の価値観は変わってしまったし、憧れよりも共感を大切にする価値観は今後ますます進むと思われる。いくら90年代がブームになろうとも、今は「90年代」ではない。

ではリアルが重要である現代、抽象造形がこれからのファッションを切り拓く可能性はないのか。抽象造形が、これからのファッションで価値を持つにはどうすればいいのだろうか。そのことについて、今回は考えていきたい。

しかし、その前にそもそもの疑問がある。それは「抽象造形はファッションに必要なのか」というものである。

結論からいえば、ファッションに抽象造形は必要だ。人間を特徴づける大きな要素は身体になる。例としては「身長の高い・低い」は、誰もが感じやすく記憶に残りやすいものだろう。身体が人に与える印象は思いの外とても強い。そして、服はその人間の身体の見え方を変えるプロダクトと言える。人間が服を身に纏った時、素材が身体の上でどのようなフォルムを描くのか。そのフォルムが周囲の人に、美しさや可愛さといった感覚だけではなく、悲しみ(喪服)や幸せ(ウェディングドレス)といった感情も訴え、その人自身の印象を変えていくことを可能にする。それが服だと僕は捉えている。

フォルムに焦点を当て、人間の身体の造形的魅力を引き出そうとする服が抽象造形であり、生み出された抽象造形はそのインパクトからファッションデザインの歴史を押し進める一歩となる。ビジネス的には売ることが困難なため、価値が低い抽象造形だが、ファッションデザインの歴史(モード史)のページを更新するためには欠かせない。ただし、抽象造形の服はビジネス的に価値が低いとは言ったが、クリエイティビティを示すことで企業やブランドから新たなるプロジェクトのオファーを生み出し、ビジネス的メリットを生む可能性もある。

代表的な例では、コム デ ギャルソンのコブドレスがある。従来の美しさとは無縁な、女性が身に纏った時に身体のあちこちが歪に膨らんでいるあのドレスだ。僕はコブドレスが発表された1997SS “Body Meets Dress, Dress Meets Body”をリアルタイムでは体験していないので、当時の衝撃が肌感覚ではわからないが、コブドレスを見た人々の証言を読むと相当なインパクトがあったと思われる。

コブドレスは「身体をデザイン」した服と言える。あのドレスの登場で、ファッションデザインの歴史は前に押し進んだ。

「美しいとは何か」
「これまでの美しさは、これからも美しいのか」

コブドレスは、新しいフォルムへの探求を切り拓く役割を歴史において果たしたと言えるだろう。

他に僕が価値があると思う抽象造形は、フセイン・チャラヤン(現在のブランド名は「チャラヤン」)が2000AWコレクションでラストに発表したスカートだ。ミント色のノースリーブのトップスと、膝下丈のタイトな黒いスカートを穿いた女性モデルが、床に置かれた木製を思わす茶色い丸いテーブルへ近づく。そのテーブルの中心には円形の穴が空いており、その穴へモデルはテーブルをまたぎ、足を下ろす。

そしてモデルが腰をかがめ、両手で円形の穴の淵にある取っ手を掴み、そのまま手を上へと持ち上げる。するとテーブルは上方へピラミッドのように段差をつけながら円錐状に伸び始め、モデルは掴んでいたテーブルの取っ手を穿いていたタイトスカートのウェストに引っ掛ける。現代的なブラックのタイトスカートの上に、テーブルがスカートとなりレイヤードされたフォルムが現れる。

このテーブルスカートには疑問を沸き起こす力があった。いったいこれはなんのための服なのか。なぜこんな服を作ったのか。その疑問を招く力が、大きな求心力となり、テーブルスカートを不思議な魅力で溢れさせた。

マルタン・マルジェラが2000AWと2001SSに発表したビッグシルエットは「抽象造形のリアル版」とも言える。あの服にはトレンチコートなどスタンダードアイテムがベースであったにも関わらず、疑問を起こす確かなパワーがあった。僕自身もリアルタイムであのコレクションを見た際、高揚感なんてまったくなくて、「いったい誰が着るんだろう」とかなり冷めた気分になっていたのを覚えている。

前置きがかなり長くなったが、ここからが今回の本題である。パリコレクション2018SSを見ていたら、ある二つのブランドのコレクションに惹かれた。そのコレクションには抽象造形の「可能性」があるように思えた。その二つのブランドとは、リック・オウエンスとコム デ ギャルソンである。

今のコム デ ギャルソンは、00年代のコレクションとは打って変わり、抽象造形へ完全に振り切っている。それはもはや服とはいえず、巨大な布のオブジェと化している。そんなコレクションを、近年コム デ ギャルソンは続けて発表している。

正直、僕はその布のオブジェを見ても、造形の迫力にインパクトは感じても、新しさはまったく感じなかった。むしろ古いとさえ思う。「新しさを標榜しているブランドなのに、新しさを作っていないじゃないか」。2010年代後半にも入って、どうしてリアルという現在の大切な価値観を無視し、誰が着ても人間の存在感を消してしまう(それも今の文脈で見ると疑問)巨大な布のオブジェに疑問ばかりが渦巻いていた。

そう思っていた時に、あのコブドレスの進化版を思わすフォルムもありながら、従来の抽象造形には感じられなかった「何か」を感じたのが、リック・オウエンスの2018SSだった。

何かとは何か。それは服のリアリティだった。たしかにリックの服は、これぞまさに抽象造形と言える服。けれど、そこには「クールでモダン」と評される服たちと同じ空気を僕は感じる。その空気にはリアリティがあったのだ。なぜ、自分はリックの抽象造形にリアリティを感じたのか。その感覚を追ってみると、三つのポイントに気づく。

一つはシルエット。リックの抽象造形には、着ているモデルの身体のラインを露わにするシルエットが織り混ざっていて、そのシルエットが人間の身体を意識させるリアリティに繋がっていたのだ。

二つ目は肌の面積である。身体すべてを抽象造形の服で覆うのではなく、どこかに肌を露わにする箇所を混在させたルックがいくつもあった。コムデギャルソンの抽象造形に比べると肌の見える面積が多く、特に腕と脚の肌が晒され、そこにはスポーツのユニフォームやランニングウェアに通じるスポーティな空気が漂い、それもリアリティへと繋がっている。

三つ目は、先述した二つがあってこそ生まれたものなのだが、色気である。身体のラインを露わにし、肌を露わにする。そのことで抽象造形に色気が生まれた。人間にとって「性」はとても重要だ。快楽の性的欲求を満たすという意味もあるが、人間が種として存在していくために「性」は欠かせない。ゆえに、人間の身体が身にまとう服にはどこかしらに色気を漂わし、見るのものに性的刺激を多かれ少なかれ与えることが、服を魅力的にする大切な構成要素だと僕は考えている。

うる覚えで申し訳ないが、たしかヘルムート・ラングだったと思うが「服は着るものだが、脱ぐものでもある」と語っていて、その言葉には色気の大切さが語られていると僕は思う(違う人物だったら申し訳ない)。アズディン・アライアの服にも「性」の重要さと美しさが潜んでいる。

そして、今回リックが秀逸なのは「文脈」を捉えたデザインをしている点である。「文脈」はファッションデザインの歴史の流れという意味で、僕は「トレンド」という言葉に置き換えることが多いのだが、ここではわかりやすくするために「文脈」を使っていきたい。

ルックを見ていくと、あるディテールが目に止まる。手を完全に隠してしまうほど極端に長いロングスリーブのレッグアームを、モデルが左腕にはめていることに気づく。それはヴェトモンのロングスリーブを思わすデザインだ。この極端に袖丈の長いロングスリーブは、ヴェトモンが生んだ時代のアイコンと言える。そのアイコンをリックは左腕だけに取り入れた。そのことで、今の空気を掴み、文脈を捉えている。

足元にはスニーカーライクなシューズ、サンダルなど今のスタイルに必要なカジュアルさが取り入られ、そこもストリートに通じるカジュアルの文脈の捉えに繋がっている。

また、ルックの中にはテーラードジャケットの断片を思わすデザインがあった。今はストリートがメインストリームだ。しかし、その流れが続いた分、エレガンスへの揺り戻しが明らかに起き始めている。そういう流れの中で、クラシックなエレガンスを感じさせる代表的アイテムと言えるテーラードジャケットをピックアップし抽象造形に取り入れたのは、文脈を捉えた「次」を示唆するデザインとも言えよう。

コレクション終盤には、大胆に穴をいくつも作ったピースが複数登場する。80年代のコムデギャルソンやヨウジヤマモトのボロルックの系譜を感じさせ、デザイン的にはフセイン・チャラヤンの2003SSを彷彿とさせる。

コレクションに使用された色は黒と白がメインカラーで、その他にグレーやグリーン、渋いマスタードが混ざり、柄やプリントは排除されて色の装飾性はなく、それはとてもミニマリズムな色使いで、今注目されている90年代的だ。そういえば、先日ヘルムート・ラングと共に90年代をリードしたジル・サンダー本人の展覧会がドイツで開催されることが発表された。このニュースも90年代が今の時代においては未だ重要だということを証明する。

リアルとアヴストラクトをミックスした、コンテクストなデザインで、アヴァンギャルドの新しい可能性を切り拓くコレクション。ファッション的にいえば、そんな表現だろう。今回のリックのコレクションは、文脈を重層的かつ多角的に捉えたコレクションで、個人的には重要な価値を持つコレクションだと判断している。

そして、コム デ ギャルソンだ。先ほど、インパクトはあっても新しさを感じない、古臭く見えるとファンから批判されそうなことを言ったが、そのコム デ ギャルソンがリックと同様に抽象造形の新しいコレクションを見せてくれた。久しぶりに、僕はコム デ ギャルソンに高揚感を感じる。

「これは、近年のベストギャルソンだ」

見た瞬間、僕は思う。なぜそう思ったのか。一見すると、これまで発表していた巨大な布のオブジェと同じなのだが、近年のコム デ ギャルソンの抽象造形のコレクションとは違いが決定的にある。それはリックと同様にスタンダードアイテムの断片が織り交ぜられ、かつこれまでよりも身体が晒されて今最も重要な「リアル」が表現されていたことだ。

ここ数シーズン、コム デ ギャルソンが発表してた巨大な布のオブジェは人間を覆い尽くし、人間の存在を消す服。正直それならトルソーに着せるのと同じ。しかし、服は人間が着るもので、人間の見せ方を変えていくプロダクト。今回はジャケットとドレスのニュアンスが入り込みつつ、主に脚が晒されて目に見える肌の面積が格段に増え、「身体」を強く実感するようになる。それが人間の存在=リアルを感じさせる源泉となった。それは先述したように、リック・オウエンスと同様のアプローチだ。

そしてリアルへ繋げる表現として、今回新しく取り入れられたのが、「エースを狙え!」といった往年の少女漫画を連想させる(セーラムーンも感じさせる)83歳の少女画家、高橋真琴の描いたアニメタッチな絵だ。まさにアニメは現代を代表するリアル。つまり、今回のコム デ ギャルソンは今の時代に最も必要なリアルをスタンダードアイテムを媒介にした「服」そのものだけの表現にとどまらず、アニメやカワイイという「現象」をピックアップし、現代に必要なリアルを多角的に表現して抽象造形に取り込んだ。

今回何度も述べてしつこいと思われるだろうが、かつてのような抽象造形は今や古い。そこにインパクトはあっても「新しさ」はない。それが現代のファッションデザインの文脈と時代感。では冒頭で述べたように抽象造形が、これからのファッションを切り拓く可能性はないのか。抽象造形のファッションデザインは絶滅危惧種となるのか。いや、アプローチ次第で未来はあるはず。それをリック・オウエンスとコム デ ギャルソンの2018SSコレクションを観て確信する。文脈は乗っているだけはでダメだ。その先の新しさの提案で、歴史のページを前に押し進めなくてはならない。リアルが大切な今こそ、その対極にあるアヴァンギャルドで抽象的な造形で、リアルを表現していく。まさにカウンターデザイン。

ファッションデザインの面白さはカウンターデザインにこそ潜む。時代を変える醍醐味を味わえるからだ。カウンターデザインには、賛否両論が入り乱れる。それが面白い。みんなに嫌われないよう嫌われないようにしていたら、みんからどうでもよく思われてしまう。商品同質化が、セレクトショップのオリジナルやメーカーのブランドだけでなく、コレクションブランドにまで及び始めた現代。売れるために売れている服を作ることよりも、売れるために面白い服を作る方がファッションの未来を切り拓く可能性があるのでないだろうか(その面白い服の売り方をどうするか、それも今はデザインに含まれている)。

ファッションは誰もが参加可能なゲームだ。専門教育が必須なわけでない。年齢やキャリアが成功を約束するわけでもない。出身学校やどんなブランドで働いたかも、ファッションの性質を考えると意味をなさない。時代の変化によって、売れていたデザイナーが売れないデザイナーになる。それが当たり前の世界。自分が自信を持って提案した服でも、周囲と市場から否定されることはある。その悔しさと怒りは、強固な意志と創造的な論理で突破していく。自分が「これだ」と思える服に価値をもたらす。誰が時代を変えるか。それを競って、みんなで参加すればいい。そのことを楽しもう。

そしてゲームは今日も始まっていく。

〈了〉

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