アジアのアウトローエレガンスに心が揺れる

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AFFECTUS No.456

私がアジアのアウトロースタイルの魅力を知ったのは、今から7年前、2016年6月に発表された「3.1 フィリップ リム(3.1 Phillip Lim)」2017SSメンズコレクションを見た時だった。これまで抱いてきたクールなニューヨークモードスタイルという、フィリップ リムのイメージを刷新する亜熱帯なメンズウェアに私は心惹かれる。

もしかしたら、この瞬間が初めてだったかもしれない。自分の好きなファッションとは違うファッションでも、痺れてしまう体験をしたのは。ミニマルウェアが好きな私の趣味趣向とは正反対に位置する、アジアの男が漂わす美しさは、新たな感覚を私にもたらす。そして今、「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」を初めてクローゼットに加えたいと思うようになり、ますますアジアのアウトローエレガンスが気になり始めると、私はある体験を思い出した。

私が生まれ育ったのは神奈川県川崎市の南部で、小学生から中学生を過ごした1980年代から1990年代前半はヤンキーが生息していた。リーゼント、短ラン、ボンタンという3種の神器を揃えた学生が、校舎を歩く。

私自身はヤンキーの世界とは無縁の学生生活だったが、ヤンキーは遠い存在ではなかった。当時の私はサッカーに夢中で、ファッションに関する興味は持っていなかったにも関わらず、校内や街中で、襟足を伸ばした紫色の髪の毛にアイパーをかけたウルフカットや、金髪リーゼントの先輩たち(中学3年生)を見かけることが密かな楽しみになっていた。

「なんて個性的なんだろう」。

彼らの姿はファッション的面白さにあふれていたのだ。

中学1年の時、当時通っていた理容室で散髪中、私が通う中学校で最も恐れられていたヤンキーの先輩二人が来店した。

「あの個性的な服が見られる」。

私は嬉しさを抑えながら、鏡越しに映る先輩たちの姿を眺める。淡いパープルヘアの先輩が着用していた短ランの裏側を、私は凝視した。極端に短いブレザー(私が通った中学校の制服はネクタイとブレザーだった)の裏地は、髪の毛よりも濃厚な紫色の光沢生地に、龍の刺繍が大胆に施されていたのだ。

あの時、私が感じたエレガンスは、きっと現代で言うエレガンスとは異なる。ファッションには「美しさ」という概念がある。その言葉を聞いたとき、どんな色、シルエット、スタイルを思い浮かべるだろうか。ピンクや白のシルク生地を使い、植物をモチーフにした緻密な刺繍を施した、豪華絢爛なドレスを想像する人もいれば、グレーや黒のウール生地で仕立てられたスマートなシルエットで、ミニマルなスーツを想像する人もいるだろう。

通常、トレーンを引く真っ白なロングドレスに、黄色い虎や緑の龍の刺繍がセットであることはない。白いドレスが装飾されるとしたら、白もしくはオフホワイト、あるいはベージュのレースなど、ドレスの雰囲気を損なわないディテールが選択されるはずだ。

ヤンキースタイルは、伝統のエレガンスとは対極の装いである。黒いギャバジンのパンツは股上が深く、腰回りから大腿部にかけて大きく膨らみ、裾に向かって急激に絞られていく。そのシルエットは非常に野暮ったく破綻的。開襟シャツはスリムな形であっても、生地にはアロハ柄がプリントされ、亜熱帯な空気を漂わす。無地の生地を使っている場合は服のシルエットがワイルドになり、逆にシルエットがシンプルに作られると、生地には鮮烈な色と柄がプリントされている。決して、おとなしくしていることはない。常に騒がしく、高らかに主張している。

そんなクセとアクが強いファッションに、現在の私は再び面白さを感じ始めた。いったいなぜなのだろう。二つの理由が考えられる。

一つは強烈なエネルギーを感じるからだ。今の私は、従来のエレガンスに少し飽きてしまい、自分の感覚を更新するファッションを欲している。虎と龍が戦う姿をプリントしたスウェットには、超長綿の生地で仕立てられた白いドレスシャツとはまったく違う個性を発している。ファッションの伝統がエレガンスをデザインすることなら、アジアのアウトローエレガンスはパワーをデザインする。あの野暮なスタイルを完成させるためには、美しいディテールや色使いは妨げでしかない。

二つ目の理由はモードの文脈的面白さだ。2015年にデムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)が「ヴェトモン(Vetements)」を発表すると、ファッション界には新たな概念が誕生した。それが「アグリー(醜い)」と言われるスタイルである。

極端に誇張したビッグシルエット、色と柄が鮮烈なグラフィックを駆使して、フーディやスウェットなどのストリートウェアで表現されたファッションは、ファッションで重要視されてきた伝統のエレガンスとは別の文脈を示した。きっと、ファッションに美しさを求めていない人もいたはずだ。着たいのは単に美しい服ではない。エネルギーにあふれた服を着たい。そんな消費者のニーズを捉えたのが、ヴァザリア発のアグリーだったと私は思う。

しかし、ストリートウェアを基盤にしたアグリーはカジュアルだ。ファッションに美しさを望まない人たちすべてが、カジュアルを望んでいたとは限らない。ビッグシルエットに惹かれた人すべてが、ストリートウェアを着たかったとは限らない。クラシカルなスタイルで、アグリーを堪能したいと思う人たちもきっといたはずだ。

そう考えた時、市場でその要素を満たすブランドがあった。ヨウジヤマモトである。カッティングの天才、山本耀司の作る服はたっぷりとした量感のシルエットでも、身体を立体的に表すパターンが仕込まれていて、オーバーサイズとは異なる概念の服だ。その特徴に、大胆なグラフィックプリントを組み合わせて、新生ヨウジヤマモトの個性が誕生した。1980年代にパリを震撼させた東京ブランドは、2010年代でもモードの文脈にアンチテーゼを示す。

ヨウジヤマモトのグラフィックプリントは、オリエンタルな趣で東洋芸術を見ているような感覚を起こして、日本語の文章もプリントするという異端性も披露し、アルファベットのロゴや西洋ファッションの美意識に基づいたグラフィックのストリートウェアとは異なるアプローチで、アグリーを表現したと言える。着たいのはエレガンスではなくパワー。着たいのは西洋の美意識ではなく、東洋の美意識。それこそが、アジアのアウトローエレガンスが示した文脈価値であり市場価値と言えよう。

ますます私は着たくなってきた。生地に大きな緑の葉が生い茂る開襟シャツを着て、黒いタックパンツを穿いて街を歩きたい。危うい匂いが漂うメンズウエアの魅力に抗うのは容易ではない。人からどう見られるかはファッションにおいて重要なことだ。しかし、人からどう思われても、自分の好きな服を着る楽しみを味わいたいのも、ファッションというものである。

〈了〉

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