AFFECTUS No.6
デザイナーの作る服に惹かれる時、そこにはデザイナー自身の偏執的な「好き(趣味)」が反映されている。そう考えてみると、ジョナサン・ウィリアム・アンダーソン(Jonathan William Anderson)の服を初めて見た時、僕が彼のコレクションに惹かれなかった理由もわかる。
アンダーソンの存在を知ったのはいつだったか定かではないが、初めて見たアンダーソンの服の印象は残っている。フェミニンなウィメンズウェアを、そのまま筋肉質な男性モデルに着せたルックが今も目に焼き付いている。アンダーソンがジェンダーレスデザインで注目を浴びて話題になっていたころだ。
当初、僕はアンダーソンに対してかなり懐疑的で、コレクションを見て嫌悪感さえも感じるほどだった。ジェンダーレスで話題を集めていたころの服を見た時は、計算しすぎというか、狙いがあざとすぎるようにも感じて好きになれなかった。
また、アンダーソンがまだ底を見せてない感覚、ゲームをしている感覚も覚えた。今、世の中がこういうトレンドだから、こんなコレクションを発表すれば騒がれるだろう。そういうゲーム感覚をアンダーソンのジェンダーレスな服から感じ、冷めてしまった。もちろん、これは僕の勝手な解釈だが、そう感じてしまったがゆえに、僕はアンダーソンのコレクションに強い興味を抱けずにいた。
彼のジェンダーレスな服は、騒動を起こして自身に注目を向けさせるためのような服にも思え、本心から自分で作りたい服を作っているのかという疑問も浮かんできた。
女性の服をそのまま男性に着せるという手法が安易すぎるし、若くしてその才能に注目が集まったアンダーソンならジェンダーレスの表現として他の手法も思いついたのではないか、どうしてあんな使い古された手法を選んだのか、そんな疑問を感じて、どうにもこうにもアンダーソンの服を好意的に見られなくなった。
だが、その印象が一変する瞬間が訪れる。場所は、銀座のドーバーストリートマーケットで、アンダーソンのブランド「J.W.アンダーソン」の服を丁寧に見てみると、今まで気づくことのできなかった特徴に気づき始めた。
「あれ?けっこう雰囲気ある……」
ドーバーにあった服は、コレクションで見るような大胆な服ではなくて、ベーシックなデザインで、生地も普通のコットン生地だった。表面に特殊な加工があったり色が大胆だったり、そういう凝った要素は何も入っておらず、普通のコットン生地を使った服に、僕は心が動かされる。
じっくりその服を見ていくと、惹かれた理由が次第にわかってきた。フォルムが挑戦的なのだ。布で身体を表現することにかなり挑戦的かつ実験的で、そこに私は惹かれたのだった。通常のベーシックアイテムならまず見られないであろうパターンが作られ、かといって複雑なカッティングで作られているわけではない。とてもシンプルかつ大胆にパターンを作り、味わい深い面白さを生み出していた。
アンダーソンへの印象はドーバーでの体験からポジティブなものに変化していったが、その後コレクションを見ても高揚感は感じるには至らなかった。彼はまだ本気になっていないのではないか。そんな疑念も抱いた。その理由を、アンダーソンのデビューからジェンダーレスまでの作品の変遷を改めて見ることで把握した。
コレクションの変遷を辿ると、アンダーソンは作風をかなり変化させていることがわかった。デザイナーが作風を変化させていくのは珍しいことでもなんでもないが、デザイナーは自分の軸を基盤に変化を起こす。だが、アンダーソンの変化はあっちにいったりこっちにいったり、方向性が統一されておらず、「その服を本当に作りたかったのだろうか?」とさえ思ってしまうほど変化の振り幅が非常に大きかった。
そんなふうに僕が感じていた時、『ファッション通信』でアンダーソンの特集が放送され、番組内でニューヨークの高級デパート「バードウルフ・グッドマン(Berdorf Goodman)」のリンダ・ファーゴ(Linda Fargo)が、アンダーソンについてこう評していた。
「私としては、これこそジョナサン・アンダーソンだ!というような本質的なデザインをまだ見ていない気がするのです」『ファッション通信』より
まさにそれだと僕は確信を得た。アンダーソンはこれだけの注目を浴びても、いまだ自らと向き合った、本質的なデザインを作っていない。ジェンダーレスは彼の本質ではない。その空気が服からにじみ出し、あくまで計算で作られた服のように僕は感じていた。(なぜそう思うのだ?と問われると、とても困るのだが、現時点ではなぜか初見でそう感じたとしか言いようがなく、これははっきりした理由を今後も探ってみたい)。
アンダーソンの本質的なデザイン、それはなんだろう?
アンダーソン本人でもない自分が、彼の根源について考えるようになっていく。
冒頭で述べたように、僕が高揚感を感じるデザインはデザイナーの偏執的な「好き(趣味)」が反映された服だった。では、アンダーソンの偏執的な好きは何かという新たな疑問が浮かぶ。そのヒントの訪れは想像以上に早かった。
先ほど触れた『ファッション通信』の中で、アンダーソンが服を作らずにアクセサリーだけでデビューした際の作品が登場する。それは、生きている(そうだったと思う)虫をそのまま閉じ込めたアクセサリーだった。正直、虫がとても苦手な僕は強烈な気持ち悪さを覚えたが、あのグロテスクな世界こそがアンダーソンが真に愛する世界なのではないかと直感する。デビューコレクションというのは、デザイナーの本質が多かれ少なかれ、確実に表現されている。だからこそ、アンダーソンのデビューコレクションに発表されたアクセサリーにも現れたのではないか。
そして、アンダーソンのコレクションで初めて高揚感を感じる瞬間がやってきた。J.W.アンダーソン2016AWコレクションに、僕は惹き込まれていく。
ようやくアンダーソンが本性を露わにした。
そう強く実感する。あの虫を閉じ込めたアクセサリーを作った、アンダーソンのグロテスク好きがようやく露わになった。本音を語らなかった人間が、ようやく本音を語り始めた。僕は「モダンなコム デ ギャルソン(Comme des Garçons)」というフレーズが不意に浮かぶ。2016AWコレクションには、あの虫を閉じ込めたアクセサリーと同様な気持ち悪さがあった。しかし、この気持ち悪さを、どんなに気持ち悪くても、僕はもっと早く見たかった。
異形をクールに表現するのがアンダーソンの本質。彼のデザインが初めて僕の心に深く響く。
アンダーソンはメディアとのインタビューで自身のブランドの特徴を訊ねられた際、「ハイコンセプトなベーシック」と答えていた。そのコンセプトがようやく具現化され始めている。コム デ ギャルソンよりも21世紀のコム デ ギャルソンを作る「モダンなコム デ ギャルソン」。それが私にとってのジョナサン・ウィリアム・アンダーソンだ。
〈了〉