ヨウジヤマモト 2003SSコレクション

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AFFECTUS No.16

2002AWオートクチュールコレクション開催期間中に発表された、ヨウジヤマモト2003SSプレタポルテコレクション。これこそ、僕が思う山本耀司のベストコレクションである。

春夏プレタポルテコレクションが発表される時期よりも3ヶ月早いオートクチュール期間中に発表されたが、あくまでもこれは既製服のコレクションで、特別で格別の挑戦がある服ではない。厳かに静かで潔い服だと言えよう。

服もシンプルであれば、ショーの演出も特別さは皆無だった。音楽を背景に、モデルたちがランウェイを歩くだけの演出で、ショーに使用されたBGMがモーリス・ラベル(Maurice Ravel)の『ボレロ(Boléro)』だったことも、簡素なショーの印象をより強くする。何から何まで派手さを徹底的に排除したコレクションを、豪華絢爛さを競うオートクチュール期間に発表したことが山本耀司の反骨精神を表す。そしてモードの伝統に喧嘩を売る山本の姿勢は、服そのものにも宿っている。

服作りの原点は「布を使い、人間の身体をどんな技術でどう表現するか」にある。2003SSコレクションは山本が表現した服作りの原点が表現され、緻密で繊細な装飾や高級感に溢れる素材は使わず、カッティングを武器に無地のコットンで作られた服の数々は、デザイナーというよりも服作りの職人という趣を感じさせた。

「衿は首元からこの分量で離そう」
「ダーツの位置はここで分量はこうだ」
「ウェストから足元に向かってのシルエットはこれで」

ボディと布に対して真摯に向き合う山本の姿が見えてくるのは、気のせいだろうか。ファッションというより服を見せられている感覚に近い。トレンドに受け入れられるためではなく、山本がこれまでの経験の中で培ってきた美意識を、見る人へ問う服に思える。「お前ら、この服をどう思うんだよ。ちゃんとわかるか?」というふうに。

モデルがジャケットの袖をまくってポケットに手を入れているのだが、手の形に歪んだポケットすらも美しく見え、山本はポケットに手を入れた時にもジャケットが美しく見えるように、ポケットの布の分量まで計算しているのではないかとさえ思えてきて、気がつくとなんてことない布のボリュームにも美を感じてしまっていた。

2003SSコレクションは徹頭徹尾、至る所に美しさが控えめに漂う。女性の身体に布を沿わせては離す。服はその連続で作られていくもの。誰かを美しくするために、自分の技術と感覚のすべてを注ぎ込んで服は作るもの。そんな当たり前のことを、大切さを伴って思い出させる。

このコレクションを好きなのは、そういった服作りの原点が美しいことを改めて教えてくれるからだった。服とは誰かのために、自分の技術と感覚を総動員して作るものだと思う。

最近感じる疑問の一つに、「自分の着たい服を作る」と述べるデザイナーの多さがあげられる。その考えを完璧に否定するわけではない。自分の着たい服を作ることはなんら間違っていない。生活する上で自分が理想とする服を作ることは、服の正しい創作の在り方だ。しかし、デザイナーという立場で世の中に服を出すからには、もう少し「誰かのために」という精神を感じさせる言葉を聞かせてくれてもいいのではないか。そんなことを思うことが増えていた。

ヨウジヤマモト2003SSコレクションは「誰かのために」という精神を強く感じさせる服で、その精神で作られた服には美しさが宿ることを伝える。

服作りに技術は必要だ。しかし、日本は技術を重要視すぎるきらいがあり、僕はそれがどうも好きになれない。誤解を恐れず言えば、技術はファッションデザインの本質ではない。では、感覚を第一にファッションをデザインすればいいのかと言われると、それもまた違う。立体的な曲線である人間の身体に、平面の布をまとわせるのが服だ。その制作プロセスに技術は必要不可欠で、技術の習得過程で養われた審美眼は、服を美しく完成させるためには欠かせない。

特にリアルなデザインが重視される現代では、服のデザインもシンプルが好まれる傾向があり、シンプルなフォルムにニュアンスの変化を生み出すには技術力が重要である。

デザイナーに技術はいらないという考えに、僕は疑問を呈する。少なくとも、服作りにはある一定の技術は必要なのは間違いない。正確に言えば、技術が大切というより、技術を磨き続けることでしか身に付けられないセンスがあり、そのセンスは服作りにおいて重要な役割を果たすと考えている。

ヨウジヤマモト2003SSコレクションは、服作りの教科書とも言える。服作りの原点を気づかせ、教えてくれる。学生の時は、教科書というものが退屈に感じられる。しかし、卒業してから教科書の面白さに気づくこともある。そして山本耀司の教科書が、普通の教科書と違うのは極めて美しいことだ。僕はこの美しい教科書を、これからも飽きることなく見返すはずだ。忘れたくないものが、そこにはある。
〈了〉

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