AFFECTUS No.22
僕は小説を読むことが好きだが、ドラマを観ることも好きだ。現在放送されているドラマの中で、最も好きな作品は『逃げるは恥だが役に立つ』で、今や『逃げ恥』の略称で人気となっているドラマである。これが非常にいいドラマだと思う。毎回ユーモアがあって笑え、観るたびに笑ってしまう。
だが、それ以上に魅力を感じるのは、人間のネガティブな感情にしっかりと光を当てていることだ。とりわけ、11月15日放送回がとても素晴らしく、今クール(10月から12月)の私的ベストドラマを『逃げ恥』に決定する内容だった。
人は誰も弱さを持つ。その弱さの中には、誰にも見せたくない類のものがある。そういう弱さに、僕は人間の魅力が潜んでいると思っている。人が持つ誰にも見せたくない弱さを、丁寧に表現しているのが『逃げ恥』というドラマだ。だからだろう、このドラマを観ていると心がしんみりとした状態になり、テレビの前に座っている時間が幸せに感じられてくる。人の弱さを見て幸せを感じるなんて、下衆な話だが。
弱さという感情は、心のヒダが揺れて見えるようで、その繊細さがとても美しい。僕が小説を好きな理由も、物語を通して人間の感情を余すところなく感じられるからだ。驚きも悲しみも怒りも、そして弱さも、すべての感情を小説は感じさせてくれる。
たとえば、こんな写真があったとする。
場所は内戦の行われていた、その日食べるものにも困る今では存在しない東ヨーロッパの国。所々剥がれかかったコンクリートの壁を背に、幼い女の子と大人の男性がアスファルトの上に座りこんでいる。
女の子はワンピースを着て、背中を丸めて両膝を抱えて座っている。男性は、薄汚れたツナギを着て女の子と同じような姿勢で座っている。二人は血のつながりもなければ、知り合いでもない。たまたま、その日その場所に、偶然居合わせただけで、1mほどの距離を置いて座っているだけの関係である。しかし、同じ姿勢で座っている二人には、大きな違いがある。男性だけがパンを食べている。女の子は男性がパンをかじる横顔を物欲しそうな目でじっと見つめ、男性は女の子の視線に気づいているはずなのに、彼女の空腹には気づかないふりをして、自分の空腹を満たすために両手でパンを掴んでかじりついている。
人間は、こういう一面を持っているのではないか。
そして、僕はこういう人間の弱さが好きだった。前述したように、誰にも見せたくない弱さがある。僕にもあるし、あなたにもあるだろう。誰だってそんな弱さを人には見せたくない。もし見せてしまえば、怪訝な反応をされるだろう。
しかし、そんな反応をされても僕は責める気にはなれない。だってみんなそうだから。弱いことは責められることではなくて、誰もが持っている当たり前のこと。子供のパンをせがむ視線から目をそらし、分け与えることなんてせずひたすら食べ続ける大人。誰もがそうなる可能性を持っている。
今回の『逃げ恥』を観ていたら、自分が服を好きな理由を思い出した。僕が服に感じる魅力とも言うべきか。僕は服が持つネガティブな側面に魅力を感じている。おしゃれをすることで自分に自信を持ちたい、身体のラインを隠したい、好きな人からよく思われたい。現在の自分への不満から服を着る。服にはそういうネガティブな側面がある。だが、そういう人間の弱さを肯定してくれる力が服にはある。
僕が好きになるデザイナーたちのデザインは、繊細さを感じさせる作風が多い。2000年前後のアントワープのデザイナーたちを僕が好きなのも、暗くてロマンティックな趣があったからだ。
オリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskens)のデザインが好きなのも同じ理由である。僕が最も影響を受けたヘルムート・ラング(Helmut Lang)も、彼の世界観には陽気さは皆無で冷たさが漂い、僕はそれがすごく好きだった。ラフ・シモンズ(Raf Simons)のシグネチャーブランドも、男性の繊細さを美しく表現し、とても魅力的だ。疾走感を感じさせる「コシェ(Koché)」のショーには儚さが流れていて、手の届かない消えゆくものを掴めない感覚みたいなものがある。
「その気持ち、わかるよ」
頑張れよとか、元気出せとか、そういった励ましではなく、この気持ちを理解してくれるたった一言、そんな言葉が欲しい時はないだろうか。たとえ、自分を否定するどんなに暗くネガティブな感情であっても、その暗く沈んだ感情に共感してもらえたなら、救われる。誰にも言えない弱さを代弁してくれているような魅力が、僕の好きなデザイナーたちの服にはあるように思える。
もしいつも誰かに救いの手を差し出してもらえるのだとしたら、その人は幸運だ。しかし、いつもそんな幸運に恵まれるとは限らない。そんな時は、好きな服を着てみる。袖を通した瞬間、ほんの少しだけど、気分が新鮮になる。服の持つそんな力がとても好きだ。
〈了〉