人は素材のイメージを着ている

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AFFECTUS No.23

服において素材の果たす役割は、とても大きくて重要だ。例えば、同じパターンとデザインの黒いジャケットでも、コットンとウール、素材が異なるだけで印象は大きく変わる。服の価値(ここでいう価値とは服を着たくなる・欲しくなることを意味する)を作る上で、最も大きい役割を果たすのは素材かもしれない。

最近、生地について考えていたら、ふと浮かんできた疑問がある。「アウターは素材の肌触りにこだわる必要があるのか?」という疑問である。

服は肌に触れるものだから、素材の肌触り(以降、素材感と言う)は気持ちのいいものであったほうがいい。特に直接肌に触れる面積の大きいシャツやカットソー、ニットにとって素材感の良さは大切で、消費者としては商品を購入するか否かの大切な条件にもなってくる。しかし、ジャケットやブルゾン、コートは直接肌の上に着るわけではない。シャツやニットなどを着て、インナーに着たアイテムの上からアウターを羽織る着方が通常だろう。ならば、アウターの素材感は最低限のレベルをクリアすれば良しとし、素材感にそこまでこだわらずシルエットや色、着用時の重量など外観と着用感のパフォーマンスで十分な成果があげられる素材であればいいのではないかと思えた。

しかし、現実は違う。人はアウターの素材感も重要視する。シャツやカットソーに比べたら、肌に直接触れる面積が圧倒的に少ないというのに。

これはなぜだろうか。

例えば、外観が素晴らしく美しく、まったく同じデザインのコートが2着あるとする。一方の素材感は触れると指に滑らかさが伝わってきて、触れていることが気持ちいいと実感できる。もう一方のコートの素材感は、ざらつきがひどく、指が生地の表面を触れた瞬間、眉間にシワが寄ったのが自分でもわかるほどだ。いったいどちらのコートの売れ行きがいいだろうか。実験をしたわけではないので、正確な結果は不明だが、おそらく素材感の気持ちいいコートの方が売れるのではないか。

ここに服の特徴と面白さが現れている。

服は外観を楽しむ商品なのに、着用者が服の外観を楽しめるのは鏡に映った自分の姿を確認したときか、写真に映った自分の姿を見たときぐらいしかない(動画でもいい)。服は外観を楽しむ商品のはずなのに、着用者が外観を楽しめる時間は一瞬でしかない。歩いているとき、食事をしているとき、友人と会っているとき、人は鏡で見た自分の姿の印象と同じ印象で、周囲の人たちも自分を見ていると思っている。

しかし、その感覚は本当に正しいのだろうか。もしかしたら、立ち止まっている姿は素晴らしくても、歩いている姿の印象が「こう見られたい」と自分の描いているイメージと違っていることがあるのではないか。その逆もあるだろう。服を着て歩いている姿の方が、立ち止まっているときよりもずっと魅力的。そんな服もあるように思う。おそらく、「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」は動作中の人間を美しく見せる類の服だろう。またマルジェラ・マルジェラ(Martin Margiela)が手がけた「エルメス(Hermès)」も、ヨウジヤマモトと同様の魅力を備えた服だと思われる。

つまり、人は服を着ているのではなく、イメージを着ていることになる。服を着て、鏡の前に立った際に見たイメージが、鏡を離れてからも人の頭と心を支配している。服はイメージを楽しむものなのだ。イメージは、シルエットや色など目に見えるものだけではなく、素材感という目には見えない感覚にまで及ぶ。素材に触れて気持ち良さを感じたなら、その気持ち良さという素材のイメージも着ていることになる。

余談だが、僕の好きなコットンの原料にトルファンというものがある。中国の新疆(しんきょう)ウイグル自治区で生産されている、世界の高級コットンに数えられる原料だ。数年前、とある生地会社でトルファンを原料にしたコットン生地を見せてもらったことがある。僕は生地の触り心地に驚いた。空気が形になったら、こんな触り心地なのではないか。そう思えるほど柔らかく、気持ちのいい感触だった。

ただ、原料にトルファンを使えば必ずしも僕が惚れた感触が生まれるのかと思ったら、そうではなかった。当たり前の話だと怒られそうだが、後年、別の生地会社でトルファンを使用したコットン生地に触れる機会があったが、触り心地にがっかりした記憶がある。僕が惚れ込んだトルファンを用いたコットン生地とは、感触がまったく違っていたのだ。素材は原料・糸(紡績)・織り方&編み方の3種類が成立してこそ、素材感のクオリティが成立することを改めて学んだ。

人は素材を着ているのではなくて、素材のイメージを着ている。どんな肌触りを感じてもらいたいか。肌触りをデザインする。その感覚は服にリアリティが必須のこれからの時代、より大切になると僕は思っている。かっこよさや美しさよりも大切な価値が、服に生まれる可能性があるのではないだろうか。

〈了〉

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