AFFECTUS No.31
先日、久しぶりにドーバーストリートマーケット ギンザ(Dover Street Market Ginza 以下ドーバー)を訪れた。誰もが知るラグジュアリーブランドから、まだまだ荒削りなインディペンデントブランドまで集めた幅広いブランドチョイスは、いつ見ても面白い。ダイナミックな造形で驚かされる服もあれば、「これぞモード」という面白さを体感できるブランドも数多くあった。
だが、ドーバーで最も残った印象に残ったブランドは、そういったダイナミズム感じさせる服を作っていたブランドではなく、何の変哲もないTシャツを作っていたブランドだった。そのブランドの名前は「ゴーシャ・ラブチンスキー(Gosha Rubchinskiy)」である。ラブチンスキーが作る何の変哲もないTシャツに、僕の心は大きく動揺する。
「なんだ、これ……よくこんなのを作ったな……」
ラブチンスキーのTシャツの何に僕は動揺したのか。それは「ダサさ」だった。
今はダサいことがカッコいい時代だ。1990年代のように自分をきらびやかに見せるよりも、例え笑われることがあっても自分をありのままに見せること、そこに人々が共感する。しかし、ダサいといってもそのダサさには「よくわからない。でもいいかも」という謎めいた魅力が潜むデザインが多い。だが、ラブチンスキーにはそれがない。本当にダサい。控えめに言ってもそのダサさは完璧だ。
僕はこの「ダサさ」にどこかで出会った覚えがある。いったい、どこだ?胸中に訪れた気持ちの源をたどっていくと、僕がまだ小学生だった1980年代後半に行き着く。現在のスポーツショップほど当時のスポーツショップはおしゃれではなかった。トレーニングウェアやユニフォームなど、あくまでもスポーツのためのウェアが用意されている場所。それが当時のスポーツショップだった。スポーツをする上ではカッコいいウェアだが、街でデイリーウェアとして着るには勇気がいる。つまりダサい。それを着て街を歩こうものなら「ダサい奴」の烙印は瞬時にして押されたことは間違いない。
ラブチンスキーの服には、1980年代のスポーツショップに置かれていた服と完璧なまでに同質のダサい空気が充満していた。特に、僕がドーバーで目にした2017SSコレクションのラブチンスキーは、 「フィラ(FILA)」や「カッパ(Kappa)」などお馴染みのスポーツブランドとコラボしたアイテムがあるだけに、余計に1980年代のスポーツショップがオーバーラップされ、コレクションのダサさに磨きがかけられていた。こんなことばかり言っていたら、件のスポーツブランドに怒られそうだ。
最新のカッコよさを競うモードの場で、ダサさが迫る服を発表したこと。それが、僕を動揺させた理由の根本にある。「ヴェトモン(Vetements)」もカッコよさの定義を問うコレクションを発表している。とりわけ、街の風景をそのまま切り取ったような2017AWコレクションは驚くほどに普通だが、普通の極地がモードシーンに現れたことで逆に鮮烈な存在感が誕生していた。
しかし、カッコよさの定義を問うという意味では、ヴェトモンよりラブチンスキーの方が一段深い。ヴェトモンの服は、現代のストリートのエッセンスが強いだけにまだ理解できるカッコよさが表れている。だが、ラブチンスキーにはそれがない。現代に通じるカッコよさの匂いがひとかけらもないのだ。
僕の動揺はそれだけにとどまらない。ラブチンスキーの2017AWコレクションのショー映像にも動揺してしまった。ただし、僕を動揺させたのはショーで発表されたルックではない。ショーの演出方法に吐き気を催す感覚に近い衝動が起きた。
原因はショーに使われていた音楽だった。その音楽(と表していいのか、わからないが)は、ランウェイを歩くモデルが自らを自己紹介する声だった。ショーのルックに集中して何かを感じて想像したいのに、BGMとして流れるモデルの声がその想像をせき止め、想像したいのに想像できないという感覚を引き起こす。通常ならできて当たり前の行為を阻む現象に気分が悪くなり、それは乗り物酔いして吐き気を催す感覚に似ていた。
だが、この感覚を僕はどこかで感じたような気がする。そう思うとすぐに思い出した。アンドレ・ブルトン(André Breton)の『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』を読んだ時に訪れた感覚と重なった。ブルトンはシュルレアリスムの始祖とも言える存在であり、彼の書いた本が『シュルレアリスム宣言・溶ける魚』になる。『溶ける魚』はブルトンが自動書記によって書いた物語だ。自動書記は、乱暴な言い方すれば何も考えず文を書きなぐっていく執筆方法である。そのような方法で書かれた物語が『溶ける魚』になる。
ここから、僕が『溶ける魚』を読んで実際に感じたこと書いていく。他の人が読めば、まったく別の感想を抱く可能性があることは理解してもらいたい。
僕は『溶ける魚』が物語と称していいのか自信が持てない。とにかく読んでいて、気分が悪くなった。通常、文章を読んでいると、その言葉に刺激され頭の中で何らかの想像が働き、風景や場面など映像が見えてくる。しかし、ブルトンが書いた『溶ける魚』は僕にそれを許してくれなかった。文章に脈絡は感じられず、一つの文を読んで何かを想像しようとすると、次に読む文が前文とは関係ない文であることが多く(少なくとも自分にはそう感じられた)、歪な文章構成が場面を想像しようとする頭の働きを阻む。そんな現象が連続して起こり、一冊の中に充満している。
『溶ける魚』を読み終えた時、頭がぐるぐる回り、乗り物酔いしたように気分が悪くなってしまった。面白さは微塵とも感じない作品だった。だが、凄みを覚えた。二度と読みたくないと思ったが(実際読んでいない)。ブルトンの著作と同じ感覚が、ゴーシャの2017AWコレクションのショーにも感じられたのだ。
ゴーシャ・ラブチンスキーという人間は何なんだろう。
非常に捉えどころがない。世の中の価値観を壊すというより、かき乱す。そんなふうに感じる。現在のファッション界でデザインについて考えた時、最も重要な人物はラブチンスキーではないかと思えてくる。それほど彼のやっていることは、ファッションの「カッコよさ」を深いところでかき乱し、あぶり出していく。今、自分たちが感じている「カッコよさ」とは何だろう。なぜそれをカッコいいと感じるのか。カッコいいとは何なのか。なんてことのない、ありふれたデザインのダサい服が深く問いてくる。
ラブチンスキーの異端なコレクションには、彼のフォトグラファーという一面が大きく影響している気がしてならない。これからのファッションデザイナーは、服のデザイン以外にも何か一つ、表現スキルを持っていることが重要になる。ラブチンスキーの存在を思うと、そんな時代がもう目の前に迫っている予感すらしてしまう。
ラブチンスキーの服をダサいと感じるのは、もちろん僕固有の感覚である。今、ラブチンスキーの服を好む若い世代の人たちからすれば、僕の感覚の方こそ理解しがたいものだろう。だが、僕と同様の感覚を覚える人間が、自分以外にもいるかもしれないし、他者との感覚の相違がファッションの魅力でもある。現代で言うなら「多様性を認めること」になるのだろうか。面白さはいつだって、思わぬところからやってくる。
最後に述べたい。僕はラブチンスキーのウィメンズコレクションが見たい。本格的なウィメンズコレクションが、どうしても見たい。彼が女性のためにどんな服をデザインするのか。一人のファッション好きとして、その日が早く訪れることを願う。
〈了〉