怒りを纏うサルバム

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AFFECTUS No.34

人間の感情は言葉に表れる。どんな言葉をどのように使うかで、言葉を発した人物の感情が垣間見える。「サルバム(Sulvam)」のデザイナー、藤田哲平のインタビューには苛立ちや焦燥、憤りが感じられる強い言葉と感情が端々に滲んでいる。一読すると、彼のストレートな物言いに生意気さを感じて、反発や嫌悪感を抱く人もきっといるだろう。

しかし、今の時代、藤田の率直さは貴重に思えた。誰もが批評家になれる現在、発信者にとって嫌われないことは重要な選択になっている。それはそうだろう。誰だって、面倒な争いや非難の渦には巻き込まれたくない。僕だってそうだ。できるだけ、そういった類のものから遠く距離を置き、穏やかに暮らしたい。だが、そのことが「無難」を量産しているのかもしれない。誰にも嫌われないようにすると、それなりに好まれるものだけが生まれる。人の心に深く突き刺さって揺さぶる強烈で鮮烈な何かは、決して生まれない。

昨今、スポーツ選手に対する人々のコメントを見ていると、選手に対して品行方正を好む傾向が強くなっているように感じる。清く正しくあることを、インターネットが進化を遂げる以前の時代、例えば昭和に比べると強くなったように思える。時には、実力があるなら「なんだこいつ!?」と思われるような、荒ぶった生意気な気性の選手がいても僕はいいと思う。すべてのスポーツ選手が真面目では、エンターテイメント性に欠ける。ダークヒーローがいてもいい。個性があるから楽しくなる。そこに好き嫌いが生まれるから楽しくなる。

サルバムは以前から存在は知っていたが、藤田のインタビューを読んだことがきっかけで彼の率直さが非常に面白く感じられ、本格的に興味を持ったブランドだった。ただ、サルバムのコレクションを見ても、特別僕の心に響くものではなかった。しかし、今年1月、イタリア・フィレンツェで開催されるメンズ最大の見本市「ピッティ・イマージネ・ウオモ(Pitti Imagine Uomo)」で発表された2017AWコレクションを見ると、惹き寄せられるものがあった。そこで、サルバムが過去に発表したコレクションを、ブランドサイトでルックとショー映像の双方で確認してみると、コレクションの変遷を知ることができて大変興味深かった。

デビューシーズンの2014AWコレクションからしばらくの間は、それほど強くは感じることはなかったのだが、2016SSコレクションあたりから、藤田の師である山本耀司の影響が感じられるようになった。まるで若き時代の山本耀司が、現代から感じた感情にまかせて服を作っているような、そんな感覚だった。そして2016AWコレクションになるとその感覚は、さらに強くなっていく。

サルバムのブランドサイトではショー映像も観ることができ、このテキストの執筆時点では、2015AW・2016SS・2017SSコレクションの3シーズンが視聴可能である。あくまで僕個人の感覚にはなるが、2015AWコレクションと2016SSコレクションを確認した際、特別強烈に惹かれるものは感じなかった。しかし、僕の感覚が一変したのが2017SSコレクションだ。

ショーのBGMにマーシーこと真島昌利の曲『こんなもんじゃない』が使われ、曲が流れ始めるショーの始まりには、カッコよく見せるとか綺麗に見せるとか、自身を飾り立てるような卑しさとは無縁な、ありのままの生の個性をぶつける正直さがあった。

サルバムのブランドアイデンティティとも言えるルーズシルエットに変わりはないが、服は綺麗な仕上がりには収まらず、荒々しい感情が猛るように肉体の上で崩れたフォルムを作り出し、フォルムの崩れはディテールにまで及ぶ。ポケットは身頃へ綺麗に縫い付けられておらず、ポケット口が取れかかっている状態で、ジャケットは背中の側面側にある切り替えがスリットのように切り開かれ、その隙間からジャケット下にレイヤードされた白い布が見え隠れする。白い布は、足早に過ぎ去るモデルの動きと呼応して左右上下に揺れ、切りっぱなしの裾からゆらめく糸の断片は儚く美しく、まるで傷心した人間の心のように悲しげだ。

サルバムの服を見ていると「未完成」という印象を抱くかもしれない。僕も当初はそう思った。けれど、それは違う。これは未完成ではなく完成だ。

「服を綺麗に完成させることが完成で、服が崩れたままに完成させることが未完成。そんなクソみたいな固定観念は捨てろ」

一見未完成に見える、荒々しく暴れる感情を無理やり押さえつけられた服のこの形こそが、美しい完成型だと訴えかけてくる。

真島昌利が独特のしゃがれ声で繰り返す「こんなもんじゃない」という歌詞は、藤田の苛立ちを代弁しているかのようだ。ルーズシルエットには野暮ったさよりも繊細さ、崩れたディーテルには切なさよりも荒々しさ、それは怒りという感情が服の形となって目の前に現れたかのようだ。2017SSコレクションは藤田の怒りという感情が生々しく露わになり、私小説のような趣が漂っていた。そしてこのコレクションが、さらに発展を遂げたのがピッティ・イマージネ・ウオモで発表された2017AWコレクションである。

暗闇の中照らされる広く長いランウェイを、モデルたちが前だけを見据えて早足で歩幅広くまっすぐに歩いていく。ルーズシルエットと崩れたディテールは2017SSコレクションと同様だが、美しく誇り高い人間の姿とも言えるエレガントな空気が、明らかにスタイルへ宿り始めていた。極めて個人的な感情の発露だった私小説的趣がさらに一段と深まり、サルバムの怒りは美しさを引き連れて訴える。

「クソッタレ」

美しい容姿を持つ人間が、そんな苛立ちを吐いているかのようなコレクションだ。

以前、ある作品(おそらく漫画『ハンター×ハンター』)で、「その人を知りたければ、その人が何に怒るのかを知るべき」という台詞を読んだ。ネガティブな感情である怒りが、その人らしさを最も露わにし、強烈で激しいエネルギーが新しい道を切り拓く。

怒りを纏うサルバムは正直な服だ。嫌いな人は嫌いだろう。切りっぱなしの生地や、うねりまくったステッチに顔をしかめる人はきっといる。服の体をなしてないと言う人もいるかもしれない。しかし、その荒々しさがたまらなく好きだと思う人もいるに違いない。そんな人たちがサルバムを着ている人たちなのだろう。

先日の「ファッション通信」では、ピッティ・イマージネ・ウオモで発表されたサルバムの2017AWコレクションを追う様子が放送されていた。番組内のインタビューで藤田は、敵を作ることも厭わず、自身の道をひたすらまっすぐ進むかのごとく、これまでと変わらないストレートな言葉を語っていた。

2017年、サルバムは現在世界一の注目度を誇るファッションコンペ「LVMH PRIZE」のセミファイナリストに選出された。現時点で、誰がファイナリストになるのかは不明だ。LVMH PRIZEは単純にデザインの素晴らしさが焦点になるわけではなく、ブランドが本当に支援を必要としているかも重要なポイントになっている。通常なら、実績があることは有利に働く(日本では特に)。だが、ことLVMH PRIZEに関しては実績があることは決してアドバンテージにはならず、むしろグランプリを獲るにあたっては豊富な実績は確実に不利に働く。

そういう意味では、現在も藤田を含めてスタッフ2人で活動し、上代換算の年間売上が1億というサルバムは、ファイナリストに選出される可能性があるのではないかと予測する。願わくば、世界の新しい才能たちが競う最終決戦の場で、日本の私小説がどのような評価を得るのか、僕は見てみたい。

〈了〉

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