底知れない才能を持つ高橋盾

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AFFECTUS No.37

世界には様々なデザイナーがいる。デザイナーが作り出した服を見て、感じる感情は様々だ。あるデザイナーには美しさを感じるかもしれないし、あるデザイナーには凄みを感じるかもしれない。はたまた、あるデザイナーからはユーモアを感じることもあるだろう。けれど、怖さを感じるデザイナーはどれだけいるだろうか。僕にはその感情を抱いたデザイナーが一人だけいる。後にも先にも、恐怖という感情を抱いたデザイナーは、その人間ただ一人だ。それは「アンダーカバー(Undercover)」のデザイナー、高橋盾である。

元々、僕はアンダーカバーに強い興味がなかった。ファッションを本格的に好きになり、モードに夢中になり始めたかなり初期の段階で、アンダーカバーの存在は知ったが、「ヘルムート ラング(Helmut Lang)」や「ジル サンダー(Jil Sander)」に魅せられていた人間が「裏原」と呼ばれ、ストリートのエッセンスとアヴァンギャルドな空気が充満したアンダーカバーのデザインを見ても、感じるものは何もないのが正直なところだった。

僕が知ったころのアンダーカバーをはまだ東京でショーを開催しており、興味がなかったとは言っても、アンダーカバーに熱狂する人々は多く、その秘密はなんなのだろうと気になり、コレクションをファッション誌でチェックしていた。しかし、何度見ても僕の心が動かされることはなかったし、その秘密がわかることもなかった。

それはアンダーカバーがパリに発表の場を移しても、変わらない。パリでのデビューとなった“SCAB(かさぶた)”と名付けられた2003SSコレクションは、東京時代よりも美しさが増したように見えたが、それでも僕の心へ強烈に響くことはなかった。これは相性の問題で、アンダーカバーの感覚は僕の感覚にマッチしないのだろう。その後も、パリで発表されたコレクションを継続して見ていたが、やはり自分の感覚に変化が生じることはなかった。

しかし、自分でも信じられないぐらい、アンダーカバーに抱いていた感情が一変する瞬間が訪れる。あるコレクションを見て、高橋盾という人間の才能の奥深さを知り、その瞬間僕は怖くなった。

その「あるコレクション」とは、2007SSシーズンのコレクションを指す。タイトルは“PURPLE”。この2007SSコレクションを初めて見た瞬間に私は魅入り、そして高橋盾という人間に恐怖を抱いた。2007SSコレクションはアンダーカバーのファンにとって踏み絵となるのではないか。そう思えるほど、従来のコレクションとは一線を画す。

ストリート&アヴァンギャルドからエレガンス&セクシーへ。それまでの複雑にレイヤードされた造形は消えて、女性の身体を極めてシンプルにナチュラルに覆う造形が披露され、ブラウスやカーディガン、コート、ワイドパンツにミニスカート、ショートパンツなど、現代女性に欠かせないアイテムをベースに、アヴァンギャルドな要素は加えずに美しくリアルにスタイルは作られていく。

コンパクトなフォルムのミニドレス、伝統的Aラインのミニドレスも挟み込まれ、素材には薄手の素材を多用し、女性の肌を透けさせ、色気が香り刺激を受ける。単純に肌を晒すスタイルも多く、ストレートに色気は訴えられていた。黒やベージュ、グレーといったシックでベーシックな色をベースに、パープルやイエロー、ローズといった明るい色が混じるのだが、どれも曇りがかった色味で、単純に「キレイ」「カワイイ」とは言えない複雑さを秘めている。その複雑さはフィナーレで拡張する。禍々しさを帯びたドレスとアウターが現れ、このコレクションにはないと思われたアヴァンギャルドがダークさを纏って登場し、ショーは閉幕する。

僕は2007SSコレクションを初めて見たとき、ブランド名を確認しないままチェクしていた。デザインの素晴らしさに驚き、ただただ感嘆することしかできなく、いったいどこのブランドなんだ、新しいブランドが出てきたと高揚していた。
だが、このニューブランドがアンダーカバーだと知って驚嘆する。その瞬間、すぐさま、ある言葉が浮かんできた。それが「ダークなクロエ」だった。

2007SSコレクションのアンダーカバーは、「クロエ(Chloé)」のように女性のフェミニンに光を当て、その魅力を最大限に引き出そうとする繊細で可憐な服である一方で、クロエにはない女性の「影」にもフォーカスした毒々しさを感じる。毒も女性が持つ魅力だと訴えてくるようだった。クロエのようなスタイルにこのようなダークさを持ち込んだデザインは、それまで目にしたことがなく(あくまで僕の知る範囲になるが)、新鮮な衝撃をもたらしたニューデザインだった。

僕はこのコレクションを見て、高橋がパリの本流に挑戦状を叩きつけたと感じた。しかも、アヴァンギャルドという変化球ではなく、パリが得意とするエレンガンス&セクシーというレールに乗った直球で勝負を挑んでいる。そう思え、高橋の度胸に驚く。

結局のところ、パリで最も重視されている価値観は「エレガンス」ではないかと思う。1950年代のパリ・オートクチュール黄金期に端を発するエレガンスだ。そのエレガンスに対して、デザイナーたちが自分の解釈を発表してきた連続が、パリの、いやファッションデザインの歴史と言える。だから、デザイナーは1950年代前後のクリスチャン・ディオール(Christian Dior)やココ・シャネル(Coco Chanel)、クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)、ユベール・ド・ジバンシィ(Hubert De Givenchy)、エルザ・スキャパレリ(Elsa Schiaparelli)といった伝説的クチュリエの作品が、写真でもかまわないので(実物を見られたら一番だが)、どのようなものであったか目に焼き付けておく必要がある。

そして、偉大なクチュリエ登場以降、どのようなファッションデザインが時代に呼応して展開されていったか、それも知っておくとファッションデザインを見ることがより楽しめるし、面白くなる。ファッションは感覚的に楽しめるが、よりいっそう楽しもうと思うと、ある一定の勉強が必要になる。その勉強が、僕自身まだまだ足りていない。だが、逆に言えばもっとファッションを楽しめる余地があるということにもなり、そのことを思うとどうしたってワクワクする。

話がずれた。元に戻ろう。

ファッションデザインの歴史に大きな役割を果たしてきたのが、日本人デザイナーだ。西洋のデザイナーとは異なる価値観のエレガンスを提案し、歴史のページを次に進めてきた。高田賢三や三宅一生がそうだ。代表ブランドの一つが「コム デ ギャルソン(Comme des Garçons)」である。アヴァンギャルドの代名詞とも言える存在で、抽象的かつ迫力ある造形は強烈なインパクトを残し、新しい美意識を歴史に刻む。ただ、コム デ ギャルソンのデザインは確かに素晴らしいが、あくまで本流のエレガンスではなく別軸での提案と言える。

本流のエレガンスのレールに乗り、パリへ真っ向から挑戦状を叩きつけた日本人デザイナーがいる。山本耀司である。

「お前らのエレガンス、お前らだけのものじゃねえぞ」

そんな言葉が聞こえてきそうなコレクションを、山本は攻撃的に野心的に発表していく。

山本も当初はコム デ ギャルソンと共にアヴァンギャルドなスタイルで、新しいエレガンスを提案していた。しかし、コム デ ギャルソンがアヴァンギャルド路線を継続していったのに対し、山本はスタイルを変えていく。パリ・オートクチュール黄金期の香りを漂わす、クラシックなエレガンスへと。

山本の美意識の頂点を極めたコレクションが、オートクチュールコレクション発表期間中にプレタポルテを発表した、2003SSコレクションである。王道本流のエレガンスに、真正面から喧嘩を売った度胸と覚悟に感服する。僕はこのクチュール黄金期を源流とし、女性の魅力を控えめに美しく、または豪華さをもって華麗に表現したエレガンスを「クラシック」と自分の中で表している。クラシックの路線をなぞりながら、山本にはないアヴァンギャルドな視点を取り入れて、ニュークラシックを作り出したのが「天才」渡辺淳弥である。

しかし、パリの本流エレガンスは、クラシックだけではない。厳かで気品高い美しさや豪華絢爛な美しさとは別の、女性を活動的に若々しく軽快に見せるエレガンスがパリにはある。クロエはその代表ブランドであり、同タイプのエレガンスの系譜を遡れば、「パコ ラバンヌ(Paco Rabanne)」や「クレージュ(Courrèges)」にたどり着く。そして、若々しく活動的なエレガンスの原点と言えるのは、ココ・シャネルだ。彼女はジャージー素材を使い、ストレートでナチュラルなシルエットのドレスを発表するなど、女性が活動的で軽快に生き生きと暮らせる、女性を本当の意味で自由にしたデザインを提案してきた。そんなシャネルだからこそ、女性を前時代の価値観に戻すようなディオールのニュールックに怒りを露わにしたのだろう。

僕はシャネルが作った女性を活動的に生き生きと魅せる、軽快さと美しさを兼ね備えたエレガンスを「モダン」と呼ぶ。「クラシック」も「モダン」も、その解釈は時代やデザインによって広義になることはご了承いただきたい。山本耀司と渡辺淳弥は、本流エレガンスというレールの上に乗ると同時にクラシックを基盤にして、王道の中の王道で勝負を挑んできた日本人デザイナーだ。しかし、これまでモダンのレールに乗って、パリで挑戦をしてきた日本人デザイナーは高田賢三ぐらいである。(熊谷登喜夫はモダンのレールで挑戦してきたと言えるが、パリでは靴のイメージが強いために、服に焦点を当てた今回は外したい)。

モダンエレガンスのレールに初めて挑戦し、そしてそれまでのモダンエレガンスにはないダークな毒々しさで新しい視点のデザインを提案することで、ファッションデザインの歴史を次のページに押し進めた日本人デザイナーが、高橋なのだ。アンダーカバーの2007SSコレクションは、それほどの価値がある。まさにエポックメイキングと言えるコレクションだ。

正直、それまでのコレクションを見る限り、生意気なことを言ってしまうと私は高橋にモダンエレガンスを作る才能があるとは思えなかったし、想像もできなかった。しかし、彼はやってのけた。しかも見事なまでに完璧なレベルで。僕はそのことに恐怖する。ここまで振り幅の大きいデザインを実現するとは、恐怖以外の何物でもなく、才能の底が見えない感覚に襲われ、僕は高橋盾という人間が怖くなった。

2007SSシーズン以降、僕はアンダーカバーのコレクションに注目していく。振り幅の大きさが理由だからか、いつもアンダーカバーのコレクションが心に響くわけではなく、流し見してしまうシーズンも多々ある。それがここ数シーズンはずっと続いていたのだが、久々に会心と言える「モダンエレガンス」のコレクションを2017AWシーズンに発表してくれた。久しぶりにアンダーカバーのコレクションで、僕は痺れてしまう。2007年から10年の時を経て生まれたニューコレクションにはこれまでと異なる新しさが生まれ、アンダーカバーは進化を証明した。

2017AWコレクションは、モダンエレガンスの系譜をたどりながら、以前よりもダークな毒々しさをいっそう強くし、持ち味であるアヴァンギャルドも濃厚に混じり始め、それでいて、クラシックエレガンスの表現も垣間見える。レイヤードを造形ではなく概念で表現している多重多角的に攻めたデザイン。いやはや、恐れ入る。本当に才能の底が見えない。

川久保玲の後継者問題がコム デ ギャルソンにはある。以前、僕はジョナサン・ウィリアム・アンダーソン(Jonathan William Anderson)にコム デ ギャルソンのデザインをして欲しいと言ったことがある。アンサーソンなら、現代の感覚をふんだんに取り入れたコム デ ギャルソンを作ってくれそうな予感があったからだ。そしてもう一人、コム デ ギャルソンのデザインをして欲しいと思うデザイナーがいる。それが高橋だ。底知れない才能を持つ彼なら、21世紀のコム デ ギャルソンを作ることも不可能ではない。きっとできるはずだ。僕はぜひとも、高橋が作るコム・デ・ギャルソンが見てみたい。訪れることのない現実かもしれないが、その現実を今は夢見ていたいと思う。

〈了〉

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