新しい日本の文脈と無印良品のデザイン

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AFFECTUS No.43

先日、久しぶりに訪れた無印良品のお店で服を購入した。アイテムは、素材にオーガニックコットン使用の綿100%の太番手を用いた、ボーダーの半袖Tシャツだ。いつもの私ならMサイズを買う。しかし今回は、ビッグシルエットのトレンドに乗ってXLサイズを購入してみた。

購入した翌日、XLサイズのTシャツを着て外出をした。街を歩く。腕が前に振れ、後ろに振れ、素材が肌に触れる。熱が出て体調を崩し、三日間寝たきりだったため、外出は久しぶりで、その日は、病み上がりの身体にはこたえる暑さだった。けれど、服から感じたのは気持ちよさ。とても気持ちいい服に、僕は久しぶりの面白さを味わう。

「新しい服を着ることは、こんなにも楽しい体験だったのか」

無印良品のTシャツなのだから、外観に珍しさはない。誰もが見たことのある、極めて普通のボーダーTシャツだ。生地は太番手なので、もちろん厚め。通常のTシャツよりも厚めの生地のTシャツを私は探していた。最初、手に取ってみるとちょっと生地の厚みが希望より薄いかなと首を傾げた。しかし、帰宅後さっそく着てみたら、これで良かったと思えるちょうどいい生地の厚みで、心配は杞憂に終わった。

あえて不満をいえば、天巾がやや広かったことか。首元がキュッと締まる狭いネックラインだったら、僕の好みを完璧に捉えたTシャツだったのに。いや、それは高望みをしすぎだろう。価格は1,900円。この価格とデザイン、品質に僕は満足する。

僕は無印良品の服が好きだ。潔いシンプルなデザインに、いつも心地よさを感じる。とても自然で優しく柔らかい感触だ。ベーシックアイテムが「無印良品」というフィルターを通り、「MUJI BASIC」とも呼べる服に生まれ変わっている。

無印良品は距離感をデザインしている。どのような距離感かというと、トレンドとの距離である。無印良品の最新ウェアは、ベーシックアイテムをベースにデザインしているがために、毎シーズン代わり映えのしない商品構成に見えるが、よく見ると商品そのものはトレンドを実にうまく取り入れている。そして、取り入れるトレンド量が「少なめ」というのがうまい。どこまでトレンドににじり寄るか。トレンドとはどのくらいの距離を置くか。その距離感が絶妙なバランスだ。そして無印良品とトレンドの距離感は、いつも心地いい。

定番商品という伝統を無印良品流に解釈して、商品デザインを行う。このデザイン手法、今聞けば取り立てて新しさは感じない。しかし、無印良品がスタートしたのは1980年で、今から40年近くも前になる。今、みんなが耳にして当たり前に感じることを、無印良品は当たり前でなかった時代=装飾と華美な世界の1980年代に始めたことになる。無印良品の立ち上げに参画した田中一光と小池一子、ふたりのセンスには脱帽するしかない。

無印良品のデザイン手法で肝になるのは、解釈する視点だ。視点(コンセプト)に面白さがあれば、商品は魅力的なものに変わる。無印良品が秀逸だった点は、「わけあって、やすい」というコピーが証明するとおり、コンセプトに時代を先んじた先進性があったことである。決してビジネスが順調に成長してきたわけではない無印良品だが、コンセプトの発表から歳月を経た今でも魅力にあふれている。

無印良品のデザイン手法は、日本のコレクションブランドでも見られる。私がそのことを実感したのは、「グリーン(green)」が登場した時だ。グリーンのデザイナーで、現在は「ハイク(Hyke)」のデザイナー大出由紀子は、古着を自身の解釈で素材やディテール、仕様、シルエットを生まれ変わらせる。そして、その結果、元々の古着と同じようであって、元々の古着にはなかった新しい空気をまとった服を誕生させるのだった。

僕はこのデザインプロセスを、大出が出演した『情熱大陸』で観て知った時に驚く。「え?そのやり方ありなんだ?」と。僕には大出のデザインプロセスには、何も新しい発想がないように感じられたからだ。デザインというよりはアジャストと称した方が適切かもしれない。古着を現代的に調整している。ただそれだけに感じ、これをファッションデザインと言っていいのだろうかと、テレビの画面を観ながらモヤモヤした感覚に襲われた。

しかし、今思うのはそれもデザインだということ。デザインとは何かを大胆に変えるだけでなく、時代に合わせてモノのカタチを整えていくことでもある。時間をかけて、僕はそのことを学んだ。

グリーンの登場以降、同様の手法でデザインするブランドがコレクションブランドに限らず、アパレルメーカーのさまざまなブランドにも増えていった印象だ。ベーシックをブランド流に解釈する。そういうコンセプトを何度も聞くようになった。

僕は調整に重きを置いたデザイン手法が、とても日本的だと感じる。派手さよりも、受け継がれてきた伝統を時代と合うように整えていく。整えられた新しい形に重々しさはなく、慎み深く潔く綺麗。これこそ、「わび・さび」という感覚が生きる日本人の感性から生まれた、日本ならではのデザインではないか。この仰々しさとは無縁の手法を何十年も前から、元は量販店のプライベートブランドという、失礼ながらかなり地味な立ち位置からスタートして体現してきたのが無印良品だった(加えて言えば、イッセイミヤケの「一枚布」の存在も忘れてはならない)。

今さら、無印良品のデザインを新しい日本のデザインだと言っても説得力はないだろう。しかし、場所が変われば、新しさも変わる。無印良品のデザインが、日本の新しいデザイン文脈になる可能性を秘めた場所がある。それがパリだ。

先月、パリでは2018SSメンズコレクションが発表されていたが、以前からパリファッションウィークを見ていて、気になることがあった。パリで評価される日本ブランドは、アヴァンギャルドなテイストが多いということだ。「コム デ ギャルソン(Comme des Garçons)」に始まり、「アンダーカバー(Undercover)」
、「サカイ(Sacai)」など、デザインには複雑さと、複雑さをさらに重ねていくことでより複雑さを増していくデザインが、パリで発表する日本ブランドには多い。「アンリアレイジ(Anrealage)」も該当し、一筋縄ではいかない服を作っている。「ファセッタズム(Facetasm)」も同様で、1着1着の濃度が濃く、濃い1着が重なり合っていくスタイルにはやはり複雑さがある。

日本のブランド=アヴァンギャルドという図式が、パリで成り立ってはいないだろうか。パリの日本ブランドに対するニーズが、アヴァンギャルドになってはいないだろうか。もし、仮にパリがそう思っているなら、「ちょっと待てよ」と私は言いたい。アヴァンギャルドだけが、日本のデザインだとは思わないでほしい。日本には違う文脈のデザインも存在する。それが、無印良品が始めた伝統の再解釈と時代への調整だ。私はハイクや「ザ・リラクス(The Reracs)」が発表する服に、日本デザインの新しい可能性を感じている。ファッションの伝統であるベーシックを、再解釈して時代に合わせて提案する。一見すると派手さはない。けれど、何かが新しい服。そのような21世紀における日本のデザインが、パリでどう評価されるのか知りたい。

しかし、今となってはベーシックを再解釈するだけではインパクトにかける。再解釈する「伝統」を変えることが、これからのファッションデザインにはあってもいい。

モードの世界で「伝統」は何を意味するのか。それはモード史に残された数々のデザインだと僕は思っている。歴史に名前を刻むデザイナーたちが残してきたデザインを、次世代のデザイナーたちが新しい感覚と時代の空気を吹き込み、新しいデザインへとアジャストする。古着は再解釈と調整が許されるのに、モード史のデザインとなると、途端に見る目が変わるのはなぜか。この手法は「パクリ」だと言われてしまうのだろうか。「パクリ」と「パクリではない」を分ける境界線とは、いったいなんなのだろう。

僕は「ヘルムート ラング(Helmut Lang)」の1998SSメンズコレクションがとても好きだ。ブラック・ホワイト・グレーといったベーシックカラーを使った色使いがクリーンで、スーツやシャツなどメンズファッションの定番がデザインのベースとなり、当時としてはとてもクールなシルエットで発表されている。白いペイントを施したジーンズに、白いシャツをタックインするスタイルは、今見てもそのカッコよさに痺れる。

しかし、今見てもまったく野暮ったさがないといえば嘘になる。やはり約20年前に発表されたコレクションだ。シルエットや全体のバランスに、古臭さが漂う。それは仕方のないことだ。けれど、このコレクション、というよりデザインをこのままにしているのも、もったいないように思う。ヘルムート ラングの1998SSメンズコレクションを、現代の感覚でアジャストすれば、素晴らしいデザインに生まれ変わる予感がする。

このコレクションで好きなルックを一つあげたい。それは三つ釦段返りの白いスーツを着たスタイルだ。ジャケットの下に合わせた白いシャツは、第一釦を外してブラックのネクタイを締め、ルーズな着こなしに品格が混じり合う絶妙なスタイルだ。当時はジャストな肩幅で作られたジャケットを、今ならドロップショルダーでビッグシルエットに転換し(しかし、エクストリームというほど大きくはしない)、パンツはゆとりが少ないスリムなテーパードで、足首の肌がほんのり覗く若干短めの着丈のパンツにすると、現代の空気にフィットしたデザインが誕生するように思う。

伝統を受け継ぎ、新しい感覚で時代にアジャストさせていく。無印良品から始まったと言えるこのデザインが、パリで日本の新しい文脈として提示する価値はあるのではないか。日本は「複雑であること」に重きを置き、価値を感じる傾向が強い。誤解を恐れず言えば、日本では複雑かつ緻密であるほど高く評価されやすい。パターン100枚で作っている、という服に反応が大きくなる。特にファッションの教育現場ではそれを感じ、日本のコンペの優勝作品を見ると、その思いはますます強くなる(そういうデザインがダメという話ではない)。

しかし、複雑さも一つの価値に過ぎず、それが日本のファッションデザインのすべてではないはずだ。モードなファッションシーンにおいて潔さが、日本のデザインの価値として、もっと光が注がれてもいいのではないか。

コム デ ギャルソンと「ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto)」がパリに参加したのは、1981年だ。そして無印良品がスタートしたのが、先述したとおり1980年。しかし、無印良品が衣料品をスタートさせたのは同じく1981年になる。日本は約40年も前から、異なるふたつのデザイン文脈が、同時に存在していたことになる。
アヴァンギャルドだけが、日本のファッションデザインではない。日本には別の文脈のファッションデザインがある。それが、モード史への深い洞察と緻密なデザイン論理を伴って、パリで証明されることを期待したい。

〈了〉

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