2000年代のコム デ ギャルソン

AFFECTUS No.44

現在、ニューヨークのメトロポリタン美術館(MET)で大々的な展覧会が開催されているコム デ ギャルソン。存命中にMETで展覧会が開催されたデザイナーは、これまでイヴ・サン・ローラン唯一人。その事実が、川久保玲の評価をさらに高める。

僕はコム デ ギャルソンが好きだ。ヘルムート・ラングやジル・サンダーが好きな僕から見れば、コム デ ギャルソンはまったく異なる作風。けれど、服の新しい視点をもたらすその創作姿勢や、その姿勢から生まれるダイナミックな造形は、グロテスクでありながら伝統的なエレガンスとは異なる別軸のミステリアスな美しさを備えていて、否応なく僕を惹きつける。

しかし、僕は現在のコム デ ギャルソンがあまり好きではない。控えめに言っても、好きではない。つまり好きではない。ここで僕が言うコム デ ギャルソンとは、パリで発表しているウィメンズのコレクションラインになる。ここ数年の コム デ ギャルソンのコレクションは、巨大化と抽象化がとまらない。たしかに、僕はコム デ ギャルソンのダイナミックでグロテスクな造形は好きだが、それは「服の原型」が感じられる場合に限る。現在のコレクションを見ていると、確かにこれはこれで迫力があり、造形美としての魅力を備えていると感じるが、しかし、それはもはや服とは呼べない、服とは別の何か、とてつもなく「デカい布の塊」に見える。なぜ、このようなコレクションを作るのか。その疑問を毎シーズン、僕は抱く。

では、いつの時代のコム デ ギャルソンを僕が好きなのかと言えば、それは2000年代になる。この時期のコム デ ギャルソンは、それが服であることがわかる「服の原型」が分散的に配置されながら、同時に通常の服ではありえない奇妙で不思議な造形が持ち込まれた「リアルなアヴァンギャルド」と表現できる、胸の奥を官能的と言っていいほどに刺激するコレクションを発表していた。あのころ、コム デ ギャルソンのコレクションにはたしかに高揚感があった。「なんなんだ、この『服』は」という高揚感が。

当時の印象的なコレクションはいくつかあるのだが、その中でも僕が個人的に2000年代を代表する、かつ傑作と考えているコレクションがある。それは2006AWシーズンになる。タイトルは「Persona(ペルソナ)」。

ファーストルックからして印象的だ。女性モデルは、仮面舞踏会を思わせる仮面で美しい顔を覆い隠し、頭には老紳士を連想させるシルクハットを被っている。身にまとうはクラシックなロングレングスのトレンチコートで、コートの下には白いシャツを第一釦まで留めた生真面目な着こなしが覗く。そしてコートの上には、全面にフリルが施された黒いマントを両手で抑えながら羽織り、モデルは舞台の上を歩いていく。

このファーストルックがこのコレクションの特徴を表している。男性的であり、女性的なのだ。メンズウェアのクラシックなスタイルとウィメンズウェアのドレッシーなスタイルが、メンズとウィメンズの要素がその存在を譲り合うことなく互いに主張してぶつかり合い、デザインのベースがリアルクローズにもかかわらず、通常のリアルクローズからは決して感じることのできないアヴァンギャルドな空気が、インパクトを持って訴えてくる。

それゆえ、モデルたちの佇まいにも独特な雰囲気が醸し出されている。ショーに出演しているモデルはたしかに女性だ。けれど、このコレクションを着る女性モデルを女性と呼ぶことに僕は違和感を覚えた。かといって男性とも表現できない。もうそれは男性でも女性でもない、「人間」としか形容できない強固で確固としたイメージだ。

このコレクションが生んだ異質は他にもある。男性と女性という「性別」を人間の横軸と捉えれば、このコレクションは「年齢」という縦軸も包含している。ドレスは度々スーツとドッキングするデザインで登場するのだが、そのドレスのフォルムや色使い、ディテールには幼女を思わせる幼さが満ちている。

メンズウェアの要素からは40代から60代の成熟した男性像が浮かぶが、ウィメンズウェアの要素から感じる女性像は幼い女の子から30代と、メンズウェアに比べて若い年齢層の人物が浮かぶ。幼女が着るにふわしいドレスと、40代以上の大人の男性像を連想させるクラシックなスーツがドッキングし、一着の服となっている。これが、この「ペルソナ」というコレクションだ。

「ペルソナ」は、男性と女性、大人と子供、様々な人間があらゆる角度から組み合わされていた。そして、そのアヴァンギャルドな人物像とは裏腹に、デザインのベースをリアルクローズに置いているところが特徴だ。服をもって服を越えていく。ジェンダーレスでエイジレス、リアルでアヴァンギャルド。そう表現できる服を、2000年代中盤に発表していたことに僕は驚くほかない。川久保怜は未来を予見していたのだろうか。そう思うほどに。

この「ペルソナ」のように、リアルなアヴァンギャルドとも呼べるコレクションを、2000年代のコム デ ギャルソンはいくつも発表していた。服でありながら服ではない服。そんな服を作り出す野心的な挑戦から生まれる服は、ファッションの面白さを知り、刺激を受けるに十分な魅力があった。

しかし、コム デ ギャルソンは2010年代に入るとその作風を徐々に変化させ、現在のような抽象的で巨大な布の塊とも言えるコレクションを発表するようになった。なぜ、このようなコレクションを発表するようになったのか、正確なことは僕にはわからないし、仮に川久保玲本人に訊ねることができたとしても、明確な返答はないように思う。

現在の巨大で抽象的なコム デ ギャルソンのコレクションを見ていて僕なりに感じるのは、現代のファッションデザインに警鐘を鳴らしているのだろうか、ということ。今のファッションデザインはリアルなアイテムをベースに、大胆な要素を取り込み表現するトレンドだ。スタンダードのモード化現象と言えるトレンド。その服にはかつての90年代のような、全身で大胆に表現する濃厚で強烈なデザイン性は極めて薄い。その現状に怒りをもって訴えてきたのが、現在のコム デ ギャルソンのコレクションなのでは。僕はそんなことを思った。

けれど、それでも、僕は思う。かつて見せてくれていた2000年代の姿を、今この瞬間再度見せて欲しい、と。あの「リアルなアヴァンギャルド」は、ノームコアを経てヴェトモンが登場した現代にこそ必要だ。

今、男性でも女性でも着られるジェンダーレスの服が発表されることが増え始めた。僕はそれを一過性の現象だと思っていたが、社会の急速な変化を見ていると、それは今だけの動きではなく普遍的になり得る動きだと考え始めた。男性のための服、女性のための服に次ぐ、第3のカテゴリーの出現だ。今後、この第3のカテゴリーがファッションブランドにとって必須科目のように当たり前にデザインする時代が来るような気がしてならない。

そんな時代だからこそ、性別だけではなく年齢も超え、人間のあらゆる要素をを重層的かつ多面的に表現する人間賛歌ともいえる2000年代のコムデギャルソンを、2010年代の今、僕は見てみたい。新しさへの欲求は止まらない。その欲求は、かつてコムデギャルソンが僕に教えてくれたものだ。

〈了〉

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