王道エレガンスで勝負する

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AFFECTUS No.47

ファッションデザインの最先端を行く世界の中心。それはパリで異論はないだろう。パリモードから生まれたデザインが、ファッションデザインの歴史を押し進め、その影響は世界に波及してきた。現在でいえばヴェトモンがパリで発表し、世界中に拡散したマルタン・マルジェラのビッグシルエットとストリートのミックススタイルは、代表的な例と言えるだろう。

そのパリモードに異端として大きな役割を果たしてきた国がある。日本だ。1970年代の高田賢三と三宅一生に始まり、1980年代に入ると川久保玲と山本耀司による「黒の衝撃」、1993年になると川久保玲の愛弟子である「天才」渡辺淳弥もパリコレクションでの発表をスタートさせる。その後、21世紀になると「アトウ」の松本与(2001SS)、「アンダーカバー」の高橋盾(2003SS)、「ナンバーナイン」の宮下貴裕(2004AW)など日本の若い才能がパリへ発表の場を移していく。その系譜は現在でも続き、今では「サカイ」の阿部千登勢はパリでも影響力の大きいデザイナーと言え、「ファセッタズム」の落合宏理は2016LVMH PRIZEのファイナリストに選ばれるなど、日本人デザイナーはパリで存在感を示し続けている。

そういったパリコレに参加する「現在」の日本ブランドのデザイン的特徴を見ていると、あることに気づく。とてもコム デ ギャルソン的なのだ。もちろんすべてのブランドではない。しかし、その傾向が強い。ではコム デ ギャルソン的とは何かという話になる。一言で言うなら「複雑性」だ。例えばその傾向を具体的に把握するとしたら、2018SSパリコレクションで発表されたサカイのコレクションは好例だろう。

チェックやフラワープリントなどカラーバリエーション豊富で特徴的なテキスタイル、技巧を凝らしたパターンとディテール、幾重にもレイヤーするスタイリングなど、あらゆる要素が全力投球かつ濃密濃厚で隙がない。サカイに見られた特徴、この「複雑性」こそがパリモードに参戦する日本のデザインの特徴だと僕は捉えている。

そのようなデザインが日本のブランドに多く見られるのは、コム デ ギャルソンの影響だろう。パリモードの歴史に楔を打ち込んだ「服とは何か?」と見る者・着る者に問いかける挑戦的なデザイン。パリコレデビュー時のボロボロの穴あきセーターに始まり、コブドレス、野球のグローブを女性の身体にまとわせたような歪なフォルム、そして近年では抽象的かつ巨大な布のオブジェ、通常の服では考えられらない素材と造形で、それまでの「服」を構成する要素を破壊して新しく組み上げたコレクション。そこに、一切の隙はなく、あらゆる要素(素材・色・ディテール・シルエット……)が幾重にも重なり崩れることのない強固さと複雑さが混在している。どこまでも突き詰める。そんな気迫さえ感じる。

コム デ ギャルソンが作り出した服は、それまで表現されてきたパリのエレガンスとはまったく異なり、人々が思い描いていた美しさのイメージを完全に破壊する。新しい美を投げかけ、「こういう美しさもある」と人々の価値観を更新した。コム デ ギャルソンはパリモードに新しい文脈を刻むことに成功する。以後、その文脈の系譜をなぞるフォロワーといえるブランドが日本から現れていく。

現在パリコレに参加するブランドでは、サカイやカラーといったコム デ ギャルソンの直系ともいえるブランドはもちろん、ストリートとアヴァンギャルドを融合させた美醜合わせ持つエレガンスを提示するアンダーカバー、コム デ ギャルソンへの尊敬の念を公言するアンリアレイジ、メンズではファセッタズムの幾重に重なるレイヤーするスタイリングや細かく技巧的なディテールには、コム デ ギャルソンに通じる匂いを感じる。

僕が思うに、パリの中心に位置するのはエレガンスだ。1950年代のパリオートクチュール黄金期を源流とする、女性の美をストレートに表現する王道エレガンス。この王道エレガンスこそがパリモードの核心。その王道エレガンスに対して、別軸の新たなエレガンスを提示し、またそれに刺激され王道エレガンスが発展していく。その繰り返しがモードの歴史だと僕は感じている。

パリモードの歴史が本当の意味で始まった日、それは1950年代に入る少し前、1947年2月12日だと僕は捉えている。クリスチャン・ディオールがあのニュールックを発表した日だ。この日から本格的にモードの歴史が始まった。ニュールックこそ、王道エレガンスの象徴と言える。

そして、そのニュールックに怒りを覚え、闘いを挑んだのがココ・シャネルだ。ココ・シャネルが女性の新しい生き方として提案してきた、ジャージー素材やパンツを代表とするメンズスタイルを取り入れた、カジュアルでリラックスできるシンプルな美しいスタイルとは真逆の、女性の生き方を前時代に戻すかのようなウェストを窮屈に絞り、布を大胆に大量に使うクリスチャン・ディオールのニュールックに、ココ・シャネルは激しい怒りを覚え、自らの価値観を再び世に示すべくコレクションを発表していく。晩年のココ・シャネルを写した写真を見ると、その表情の怖さに驚く。怒りが滲んでいるようで、いつも不機嫌そうだ。そういう意味ではココ・シャネルは僕の中ではアヴァンギャルドであり、新しい美を提案してきた川久保玲と同種のデザイナーと思っている。

このクリスチャン・ディオールとココ・シャネルの行為が、まさにモードと言える。単一ではなく連結していくストーリー性あるデザイン。そして、時代は1950年代へと突入し、イヴ・サンローラン、クリストバル・バレンシアガ、ユベール・ド・ジバンシィ、ピエール・カルダンといった眩いばかりの才能たちが次々に登場し、パリオートクチュールは黄金期を迎える。この時代に生まれた女性特有の曲線的な身体のラインを、その魅力を余すことなく「贅沢」に表現されたデザインこそが王道エレガンスだった。

コム デ ギャルソン=アヴァンギャルドはパリにとって必要だった。王道エレガンスが発展していくために。そう、パリの発展のために必要だったのだ。これまで様々な日本ブランドがパリコレクションに進出してきた。現在でもコレクション(ランウェイ)を発表し続けているブランドはコム デ ギャルソン的匂いが強い。ビジネス上の決断からランウェイを止めたり、パリコレから撤退したブランドもあるだろう。そういった状況を踏まえても、なぜパリでコレクションを発表するブランドはコム デ ギャルソン的匂いが強いのか。

漫画『バクマン』の表現を借りれば、アヴァンギャルドは邪道と言える。王道とは違う道で異なる価値を示すもの。しかし、真の意味で強烈なインパクトを残し、歴史を転換させるには王道に挑戦して価値を示してこそ。確かにコム デ ギャルソンが提示したアヴァンギャルドは歴史に残る新しい価値を示した。しかし、もしコム デ ギャルソン(ギャルソンでなくてもいい)がクリスチャン・ディオールに系譜になぞる王道エレガンスの新しい表現を示せていたなら、今よりもさらに大きな影響力をパリモードの歴史に刻むことができていたのでは。そう思えてしまう。

ただ、王道エレガンスに挑戦してきた日本人デザイナーはいる。言わずと知れた山本耀司である。山本耀司が2002AWオートクチュール開催期間に発表したプレタポルテ2003SSコレクションは、山本耀司生涯最高のコレクション。その素材のほとんどをコットンで作ったコレクションは、豪華絢爛さを競うオートクチュールとは真逆のもの。それでいながら、ショーの冒頭にサンローランにオマージュを捧げたつなぎのルックを登場させ、その後も優雅な布さばきでその才能を余すことなく披露したフォルムは、これぞ王道エレガンスと言える美しさを見事に表現していた。

しかし、王道エレガンスへ挑戦してきた山本耀司ではあるが、コム デ ギャルソンほどのインパクトをモードの歴史に刻めたかというと答えに窮する。川久保玲と並び称される山本耀司だが、モード史に刻んだ楔の大きさはでは川久保玲と比較すると少し小さく感じる。その理由の一端は、山本耀司のクラシックなスタイルにあるのではと僕は考えている。つまり王道エレガンスのスタイルに寄りすぎてしまった。それが視点の新鮮さを弱めた。クラシックなスタイルとは真逆のスタイルでありながら、王道エレガンスに通じる美しさが表現されていたなら、また違う結果がもたされていたように思える。

王道エレガンスを作る上で「服」に必要な具体的要素は何か。僕はドレープ性だと感じている。エレガンスに色気は大切だ。色気が人を惹き寄せる。色気を感じさせるなら、身体、もっと踏み込んで言えば「裸」を感じさせることが必要になる。裸の女性を想像した時に浮かび上がる柔らかく曲線的な、女性特有のライン。それを見る人に想像させるフォルムを作るには、ドレープ性が重要だ。

身体のラインを感じさせるために、必ずしも身体にフィットする形である必要ではない。あの曲線的で柔らかい美しさと同じ感覚を、服の形に表現して感じさせることが必要になる。それを実現するのがドレープ性だ。あえて量感を作り、着る人の動きに合わせて揺れる布のゆらめきと陰影が、エレガンスを醸成する。

以前、時代は忘れたが昔のサンローランのコートを友人に見せてもらったことがある。身体にまとったときの優雅さを演出する、不思議なボリューム感があった。そのボリュームをより優雅に見せるため、縫代の倒し方向も通常とは変わっていた。それに脇線や肩線といった切替の位置も通常の服よりもずれて、服をまとった人間の身体を少しでも柔らかく見せる工夫が施されていたのを覚えている。

僕は肩線と脇線がトップ、つまり通常の肩線と脇線の位置(人間の身体を前後に分けたとき、そのほぼ中心)にくるよりも、それらの切替線を前あるいは後ろへずらすほうが、服のフォルムに柔らかさを生むと自分でも作っていて実感している。Tシャツで、脇線のある通常タイプと脇線のない丸胴タイプを着比べてみると、丸胴のTシャツの方がフォルムが柔らかい。特に脇のシルエットの違いが顕著だ。

そのドレープ性を表現できる技術(審美眼でもいい)と感覚を持ち、クラシックなスタイルとはまったく異なるスタイルにドレープ性を持ち込み、新たなる王道エレガンスを立ち上げて、パリへ勝負する。

歴史を考えたとき、王道エレガンスは特別な人たちのための特別な服だ。けれど、今はそういった特別さに価値が薄れてきた。富の格差が広がっている。少なくとも日本はそうだ。富める者はますます富み、貧しい者(ここではあえてこう表現する)はその貧しさから中々抜け出せない。時代背景と密接に関係するファッションなら、特別さや富とは真逆の代表的スタイルを時代の中からピックアップし、そこにあえて優雅なドレープ性を持ち込み、新たな王道エレガンスを立ち上げる。そういうスタイルに、皮肉的に豪華な素材を使うという選択もある。そのスタイルは次の時代を示すためにストリートとは異なるスタイルを選択する。そして、それはデザイナーのアイデンティティが反映された、そのデザイナーだからこそのスタイルで。

僕は日本の新しい文脈を刻むなら、日本ならではの感性が必要だと考えている。それを個人的に思うのは以前書いたように、無印良品のような簡素で潔いもの、加えて言うなら「侘び寂び」の感性が生かされたデザインだと思える。シンプルな服というよりプリミティブな服。それは僕が単純にそういう感性が好きというのもあるが、今の日本の時代背景を考えたとき、時代を象徴する日本だからこそのデザインが生まれる可能性を感じている。以前ほどの経済力が失われた今の日本だからこそ、これまでとは違う新しいデザインを生むチャンスではないだろうか。

誤解して欲しくないのは、僕はコム デ ギャルソン的デザインを否定しているわけではない。言いたいのは、もうそろそろ新しい日本のデザインの文脈を、パリモードに刻む挑戦を始めてもいいのではないかということ。コム デ ギャルソンのパリデビューから35年。コム デ ギャルソンに憧れることはやめ、新しい道の模索が始まってもいい。

「あなたたちが大切にしてきたエレガンス、あなたたちだけのものではありませんよ。あなたたちとは違う方法で、あなたたちの好きなエレガンスを作ってみせますよ」

そんな挑戦的姿勢で、そろそろパリへ挑んでいい時期ではないだろうか。口で言うほど簡単ではないだろう。ビジネス面での問題もあるだろう。しかし、もうパリモードのニーズを満たすのはやめにして、その系譜から離れた日本の新しい挑戦を渇望する。

新しい方法でパリへ喧嘩を売ってやれ。

〈了〉

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