歪さが美しいヴィクター&ロルフ

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AFFECTUS No.52

プレタポルテから完全撤退し、オートクチュールに発表の場を移したヴィクター&ロルフの二人。彼らのコレクションが充実している。その充実のクチュールコレクションの中でも極上の輝きを放つのが、クチュール移行後初のコレクションとなった2015AWシーズンだ。タイトルは「Wearable Art(ウェアラブルアート)」。

最近、このコレクションを改めて見た。その素晴らしさをとりわけ感じたのは、ブランドのオフィシャル映像を見たときだ。やはり服は、人が着て動いている姿が最も心に響き、エモーショナルなものを訴えてくる。一言で言うと感動的なのだ。

この「ウェアラブルアート」と称されたコレクションだが、簡単に言うとデニムワンピースの上に額装されたキャンバスを重ね着したスタイルになる。それだけ聞くと、かなり奇抜な服を思い浮かべるかもしれない。いや、実際たしかに奇抜なのだが、僕はそこに「live」を感じた。生きている。そういうリアルで「今」を感じさせる感覚が迫ってきた。

額装されたキャンバスは、額縁が折れていき解体され、女性モデルが身に纏うフォルムへと変形している。そのフォルムは服とは言えない何か。スカートっぽい何か。アウターっぽい何か。ワンピースっぽい何か。服とは言えない服。そういった女性が身に纏うのにギリギリの形を成した服となっている。

そして飛び散る絵の具や女性の姿が描かれたキャンバスは、額縁から飛び出してダイナミックなシルエットを描く。布が裁断されて服になる前の、生々しい姿を見せられているかのよう。額縁から絵が命を持って飛び出してきたようにも感じられ、そこには力強さと美しさが漂う。

描かれている絵もプリントかと思いきやアップで見てみると、とても微細な表現が成されている。これはプリントではなくてジャカードではないかと思い、ヴィクター&ロルフのブランドサイトで確認してみると、やはりジャカードだった。布の織りで、この多彩で緻密な絵を作り上げていることになる。やはりジャカードはプリントに比べて、色の深みと表現が立体的で隆起しているように感じられ、迫力と繊細さのクオリティが見事だ。

そんな非現実的な服を、街中で着られるワードローブとして申し分のないシンプルで可愛らしいデニムワンピースの上に重ね着している。ワンピースに使用されているデニム素材は、レーヨン混のように薄手で柔らかそうだ。そのことも余計に街中で着るリアルさを感じさせる。しかし、この素材もアップで見ると、生地の表面上の色味がとても繊細で上品だ。

額縁が折れて変形した服とデニムワンピースの対比が、とても面白い。現実と非現実を調和させようとしているのではなくて、並列させている。交わらないなら無理に交わらせる必要はない。そのまま配置するだけでいい。そこに面白さが現れてくる。この方法、ミウッチャ・プラダのアイデンティティとも言える方法で、調和された美しさとは違い、服に迫力を生む。ヴィクター&ロルフのウェアラブルアートも、まさにミウッチャ・プラダの「美しい醜さ」と同じエレガンスを醸す。ただし、ミウッチャよりも可愛らしく若く新鮮な空気で。

デニムワンピースの青、キャンバスの白、額縁の金、この色の連続がミニマリズムなファッションデザインに通じるクリーンさを作り上げている。それが新鮮さにつながっているのだろう。

コレクションにはヴィクター&ロルフ得意のパフォーマンスも披露されている。モデルが身に纏ったキャンバスをヴィクター&ロルフの二人が脱がせていき、そのキャンバスを組み立て白い壁に掛ける。キャンバスがいくつも掛けられた白い壁は、まるでギャラリーでアートを鑑賞するかのよう。しかし、額装されたキャンバスは完璧に通常の四角い形に戻っているわけでなく、未完成のままであったり、キャンバスが額縁を超えて飛び出し、身体に纏わせた布のようにドレープを描き、垂れ下がっている。キャンバスには絵の具や人間の手が描かれていて、絵画が意思を持って飛び出してきているようにも見える。

僕はこのウェアラブルアートを初めて見たとき、これぞモードと言える高揚感に包まれた。「今ここからさらに先へ」と服の可能性を押し広げ、これまでとは異なる新しい服の姿を作り上げる。そんなモードな姿勢に僕は高揚した。幸せに近いほどの感覚だった。これが見たくて、ずっとモードを見てきたんだ。そう思わせるほどの幸せだ。

直角に作られた造形の額縁が、人間の曲線的な身体と不釣り合いな違和感を感じさせるデザイン。だけど、僕はそこに美しさを感じた。素晴らしいほどの美しさを、だ。それはなぜだろう。

キャンバスに飛び散っている絵の具をアップで見ると、油絵のように隆起しているのがわかる。その隆起する絵の具の様子を見て、僕はゴッホの絵を思い出す。

2005年に東京の国立近代美術館でゴッホの企画展が開催され、僕はその企画展を友人とともに訪れた。普段は人がまばらな国立近代美術館なのだが、外には驚くほど長い行列ができ、館内に入るとたくさんの人たちであふれ、いつも静かな美術館に人間の声がさざ波立つように広がり、絵の前には人だかりができて鑑賞しづらいほどだった。同じく国立近代美術館で開催されたアンリ・カルティエ・ブレッソンの企画展ではこの10分の1、いや、100分の1ぐらいしか人が来場していなかったのに比べ、驚く入場者数だった。

何度もゴッホの絵を見てきたが、そのとき改めてゴッホの絵を見たとき、あの荒々しく盛り上がる絵の具に僕は魅入ってしまう。ゴッホは生きていたんだ。そういう命の存在を感じたからだった。自分のすべてを賭して絵を描く。その迫力と覚悟が乗り移ったかのような絵の具の隆起に、僕はゴッホの命を感じる。あのときの感覚と同じ感覚が、このヴィクター&ロルフのウェアラブルアートには備わっている。

たしかにゴッホの絵に比べると、ヴィクター&ロルフのコレクションはスマートだ。洗練されている。だけど、デニムワンピースという現実と、額装されたキャンバスを服にするという非現実を同居させた女性モデルの姿には、歪さと違和感が混在している。毎日を生きるってことは、スマートではない。思い通りにならないことの方が多い。嫌なことが連続することだってある。しかも、それは珍しくない。幸せの波は気づかないぐらいの小ささで、少しずつ迫ってくる。あまりの小ささに気づかず、波が引いてしまうこともある。だけど、辛さの波は一気に押し寄せてくる。「どうして今……?」というタイミングで。しかも連続で。

額装されたキャンバスを女性の身体に纏わせて服にする。その服を美しいものとして、美の贅沢と完璧を競うオートクチュールで発表する。その歪さにこそ、僕は美しさを強く感じる。僕が今、美しさを感じるのはクリスチャン・ディオールが発表したニュールックのような完璧に美しいドレスではなくて、違和感や疑問を感じさせる不均衡さを抱えた服だ。そこに僕はliveを感じる。毎日を生きることってスマートじゃないという生の呼吸を。

プレタポルテから完全に撤退したヴィクター&ロルフだけど、クチュールに専念して正解に思える。正直、彼らのプレタには近年魅力を感じなくなってしまった。おそらくプレタのビジネスも順調ではなかったのだろう。モードのファッションデザイナーだからといって、プレタポルテをやる必要はない。僕はプレタポルテが合わないデザイナーがいると思っている(オリヴィエ・ティスケンスもその一人)。自分の持ち味が生きるフィールドで生きればいいんじゃないか。そこで素晴らしいコレクションを堪能させてくれるなら、なおさら。特に多様性を言われる現代なら、ファッションデザイナーのビジネスにも多様性があっていいのではないだろうか。たとえ年2回のコレクションで発表することが重要であるモードの世界であっても。

人間の生き方はそれぞれでいい。その選択に良いも悪いもない。ヴィクター&ロルフのように枠を外れたっていい。正直に道を選択する。

たとえ、周りに何を言われようとも。

〈了〉

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