AFFECTUS No.55
まさかのビッグニュース。エディ・スリマンが「セリーヌ」のアーティスティック、クリエイティブ&イメージディレクターヘ就任する。そのニュースがセリーヌから発表され、あまりにも意外なディレクター人事に驚く。そもそもエディがこんなにも早くファッション界へ戻ってくるとは思わなかった。サンローランのディレクターを退任したのが2016年4月。まだ2年も経っていない。
ディオール・オムを辞めてからサンローランのディレクターに就任するまでは、5年の歳月があった(2007年ディオール・オム退任)。それを思うと、かなり早い復帰だ。
エディ、どうした?ファッションが恋しくなったのか?
エディが就任することで、早速セリーヌに変化が生まれる。まずはメンズのスタート。そしてオートクチュールも行うということだ。また、フレグランスも統括するということで、これまで以上にエディが関わる領域と権限が広く大きくなった印象だ。
メンズのスタートは当然だろう。エディの才能が最も発揮されるのがメンズなのだから。サンローランでウィメンズを初めて本格的に手がけたが、その印象はライバルであるラフ・シモンズとはウィメンズの才能においては、かなり差があるという印象だった(ビジネスの結果は別として)。
一番注目すべきなのは、肝心のデザインがセリーヌでどうなるかだ。おそらく多くの人々が思うのは「変わらない」ということだろう。サンローランで見せていた、タイトフィットのシルエットにロックでグランジな、ロサンゼルスの古着屋で見つけた古着をそのまま着せたようなスタイルが展開される。そんな予想をする人々が大半だろうし、僕自身その思いは強い。そのスタイルに飽きているのは事実なのだが、そのスタイルを支持する顧客が市場に多いのも事実だ。
注目すべきなのは、エディがスタイルを変えるかどうかではなく、変わらないエディのスタイルが今も受けるかどうか、ということ。正直、個人的には「もうお腹いっぱい!スタイル変えて!早く!」とエディに言いたい気分ではある。
サンローランの売上はエディの就任後3倍にまで拡大し、2016年には12億ユーロに達した。サンローラン在任中の2012年から2016年の4年間で、これだけ売上を伸ばすのは驚異的と言える。一見すると変わり映えしないスタイルで、いくらエディファンとはいえ飽きるのではないかと思ったのだが、僕のその予想とは裏腹に熱狂的に支持されたことになる。もしかしたら、現代は「変わること」よりも「変わらないこと」に価値があるのかもしれない。テクノロジーの進化で、何もかもスピーディに変わっていく現代だからこそ、変わらないでいることにカッコよさが滲み出しても不思議ではない。
今、トレンドは依然としてストリートが強く、ビッグシルエットが大勢を占めている。厳密に言うとビッグシルエットからボリュームダウンが生じ、リラックスシルエットへ移行している。一方で、80年代を彷彿させる肩幅が広く硬いパワーショルダーがトレンドに浮上している。スタイルの基本はカジュアル。ただ、ストリートからの反動でエレガンスも現れ始めている。
これからのファッションで僕が肝と感じていることが次の3点である。
1.新しいビッグシルエットの模索
2.ジェンダーレスの解釈
3.エレガンスをどう表現するか
エディがそのシルエットを巨大化するとは考えづらい。いつの時代になろうが、着る人間を極めて限定するスキニーなシルエットを作るはず。しかし、もしかしたら、これまでよりもシルエットにボリューム感がプラスされる可能性がある。
セリーヌのディレクター就任発表後、エディの個人サイトで彼が撮影した直近の写真を眺めた。その写真に映る若者たちはこれまでのエディの服とは異なる、ほどよいリラックス感を感じさせるシルエットを身にまとっていた。スタイルはTシャツやジーンズなどカジュアルであることに変わりはないのだが、わずかとはいえシルエットに変化が現れていた。
エディのデザインは「ロックに陶酔する若者たち」のスタイルをそのまま抜き取る。エディは自分の美意識に叶う若者たちのスタイルを、モードの場でそのまま発表する。もちろん、そこには素材や縫製においては、エディが写す若者たちが実際にまとう服よりもずっと贅沢さが滲み出ているのだが、その贅沢さが上品さへは振れず、粗雑に乱雑に扱われたような下品さがこぼれている。
贅沢さに媚びない。「だから何?」と自らの価値観に反するものには頷かない。長いものに巻かれろ。そういうことを最も嫌う。挑発的で挑戦的、それがエディが描く世界の若者たちだ。
エディは男性の繊細さを女性的な領域まで押し広げた。男性の繊細さ、少年性というものにフォーカスしてコレクションを発表したのはラフ・シモンズの方が先だった。ラフは男性の強さではなく壊れそうな繊細さを男性の新しい魅力として捉え、それをロックを通して発表した。
エディも同様にロックを通して男性の繊細さを表現した。ラフの表現する男性の繊細さが男性の枠に収まっていたのに対し、エディの表現する繊細さは男性の中に潜む女性的繊細さにまで、その領域を拡大した。エディのメンズにはフェミニンな香りがラフのメンズよりもずっと強い。
エディの服は男性であるとか女性であるとか性別を対象としておらず、体型=痩身をターゲットにした服と言える。痩せた身体であれば、女性であれ男性であれ性別は関係なく着ることのできる服だ。そういう意味では、ジェンダーレスが強調される現代よりもずっと以前から、性別を超えた服をデザインしていたと言えるし、そのデザインもセリーヌで継続されるだろう。
これからのエレガンス=次の時代の美しさとはなんだろう。僕は「歪さ」が潜むことが重要ではないかと思う。大人たちは綺麗に見せるために飾ることを良しとしてきた。今の若者たちはそのことを「ダサい」と感じているのかもしれない。カッコつけることがカッコ悪い。しかし今は、綺麗に見せるために飾り立てるよりも、カッコ悪いところを隠すことなくありのままにさらけ出す。カッコ悪いことがカッコいい。
エディの世界はカッコ悪いことを晒すというよりは、人間のネガティブを肯定しているように見える。揺れやすく傷つきやすい感情の弱さ。そのことを否定するのではなく、それでいいんだと、弱さが匂わす美しさがあると訴えるように。
エディはフィービー・ファイロのデザインを引き継ぐことなんてしないだろう。思いっきり無視するはず。きっとまったく新しくセリーヌを作り変える。そして、その新しいセリーヌはまた現代の若者たち、特に「ロックに陶酔する若者たち」の心を捉える。そのことに大人たちは理解できず、嫌悪感さえ抱くかもしれない。
きっとそれは現代の正しい姿だ。多様性に価値を置く現代の。
〈了〉