逆境を人生のスパイスにするココ・シャネル

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AFFECTUS No.60

「ウェストミンスター公爵の持ち船『フライング・クラウド』号が岸壁に横づけされると、デッキの上で『マイ・ロード』と叫ぶ水夫の声がきこえ、やがて、公爵が金ボタンのついた紺のジャケットに白い帽子をかぶってゆったりした歩調で降りてきた。そのあとに、男物の紺のカーディガンを羽織り、横縞の水兵シャツを着て、足早につづいたのは、今を時めくマドモアゼル・シャネルだった」 『シャネル 20世紀のスタイル』秦早穂子 著(文化出版局)より

この一文を読んで、どう思われただろうか。ココ・シャネルの服装を思い浮かべたとき、そこに奇抜さを感じるだろうか。

きっと奇抜に感じた方は少ないはず。

冒頭の文章に書かれたココ・シャネルのスタイルはベーシックなスタイルであり、もし街中で見かけたとしても多少は目立つだろうが、強烈な違和感を感じるほど驚くことはないと思う。

しかし、今は違和感なく見えるココ・シャネルのスタイルは、当時においてはモードだった。アヴァンギャルドと言い換えてもいい。現代ではベーシックなココ・シャネルのスタイルは、当時の人々の価値観を揺さぶる時代の先を行く先端性を備えていたのだ。

女性がパンツを穿くこと、ジャージー素材を使用すること、メンズウェアを女性が着ること、そして女性が働き自立すること、今では当たり前の女性の「スタイル(生き方)」は、ココ・シャネルによってもたされたと言ってもいい。

シャネルが活躍を始めた1910年代から1920年代、そして第二次世界大戦後の1945年以降のモード史の動向を見ると「モードのデザイン」とはどういうものなのか、それがとても捉えやすい。まるでモードの教科書といってもいいぐらいに。

モード史を見るとき、当時の服装と共に時代の動向と価値観を知ることがポイントになる。それでは、シャネルが登場した1910年代前後とは、どのような時代であり服装の価値観だったのだろうか。

一つベースになる価値観がある。それは、当時女性は男性のアクセサリーだったということ。特に上流階級においては、それが顕著である。男性を魅力的に見せるアクセサリー。それが女性の役割だった。現代の人々が聞けば、憤慨する価値観であろう。しかし、当時においてそれは「普通」だったのだ。

女性は自らを美しく見せることに力を注ぐ。厳しくウェストを締め付けるコルセットはその代表であり、その身に纏うのは常にドレスで、床にまで届く着丈は活動の自由を奪うことを引き換えに立ち上がる、か弱き存在感がある種のエレガンスを女性にもたらす。

その女性の服装を変えていくのは、新しい時代の波だった。

1900年、パリで万国国際博覧会が開催され、新しい未来の訪れを人々は予感する。一方で20世紀初頭のパリ・オートクチュール、そこはS字型シルエットを究極的に追求する場であり、どの時代よりも女性の身体がコルセットによって絞り上げられていた。次第に女性たちは、人の目に触れない室内で身体を解放する装いを始める。コルセットを緩めて着用できるティー・ガウンはその代表といえた。日本の着物も室内着として着用されるようになり、ヨーロッパで定着していく。

しかし、その変化はまだ室内においてのみという、限定的なものだった。そこに変革を起こすデザイナーが登場する。ポール・ポワレである。1906年、彼はコルセットを使わないハイウェストのドレスを発表する。ポワレは女性が室内で感じられていた解放感を、外の世界でも感じられるよう導く。

もう一人、女性の身体を解放する役割を担った重要な人物がいる。マドレーヌ・ヴィオネである。シャネルと同時期の1920年代に活躍した彼女は、布の伸縮性を引き出すバイアスカットを使い、平面的で直線的なカットで女性の身体を優しく撫でるような美しいシルエットのドレスを考案した。そのナチュラルで高貴なエレガンスを備えたドレスは、ギリシアに由来する伝統的美のアップデートを思わす。

ただ、ポワレもヴィオネも女性の身体を解放したが、精神の解放にまではいたっていない。二人のデザインはあくまでドレス。女性のアクセサリー的役割を促進させる範囲にとどまっている。

そこに登場するのが、女性を身体だけでなく精神をも解放し、新しい時代の新しい女性の生き方を作り上げたココ・シャネルだ。シャネルはモード史に収まらない「革命」を起こす。

女性たちを美しく飾る代わりに、その自由を奪う服はこうも語っているように思える。

「女に自由はいらない。男を引き立てればいい」

シャネルは女性が男性の所有物であるかのような価値観を、憎むほどに嫌っていた(男性が嫌いなのではなく、その価値観を嫌っていた)。装飾で彩られ歩くのにも苦労を要する服は、女性の自由を奪い、自立を奪っていた。シャネルはその価値観に断固として戦う。そして、時代がチャンスをもたらす。

1914年、第一次世界大戦勃発。男性が戦場に行くことで、女性たちは自ら働かなくてはならなくなる。そのためには、これまでのようにいくら美しくても、実用性に欠けた服は着ていられない。働くための快適さと実用性を備えた、女性のニーズを捉える服。それは外観の美を追求した服ではなく、女性の内面的な美を追求する服だった。その服を作ることができたのは、野心と独立心に燃え、女性の身体を熟知する「女性」のココ・シャネルだった。

シャネルは男性服の実用性に惹かれていた。その代表といえるのがパンツだ。当時、女性がパンツを穿くことはセンセーショナルだった。

1910年代、シャネルがパンツを穿いて別荘で過ごすと、当地の村人や別荘の人間たちは目を剥くほどに驚く。

「女がパンツを穿くなんて!」

女性がパンツを穿くことは、それほど異常だったのだ。アヴァンギャルドと言えるほどに。

しかし、時代の移り変わりと共に人々の意識は変化していく。世界大戦の始まりと共に女性の解放が真に始まり、高等教育を受けた職業と自由を得た女性たちが、車の運転やゴルフ、スキー、テニスなどのスポーツ、ビーチでの日焼けなど、これまでとは異なる新しい楽しみを謳歌するようになる。

パンツを穿く女性は富裕層であり、その行為が階級をも表していたが、1930年代後半にもなるとパンツを穿くことは一般化していく。

パンツにとどまらず、下着の素材であったジャージーの使用、船上の水夫たちのマリンスタイルを取り入れるなど、シャネルは女性の新しい生き方にふさわしい新しい服を提案するために、批判を浴びながらも自ら率先して着用し、これからの時代の女性に必要とするスタイルを時代に先駆けて世の中に発表する=モードを示し、時代の価値観を変えていった。その行動には、凄みを超えて狂気が宿る。

シャネルは成功を収める。しかし、1936年、フランスは左翼が政権を取り、その影響がシャネルの店にも波及する。従業員のストだ。これが契機となったのか、1939年に第二次世界大戦が勃発すると、シャネルは香水とアクセサリー部門を残してクチュールの店をクローズし、従業員を解雇する。この行為は非難されたが、シャネルが覆すことはなかった。この強引さもシャネルらしいと言える。

しかし、シャネルは70歳になりカムバックする。あるデザイナーの存在によって、彼女の闘志に火がつく。クリスチャン・ディオールの登場だ。

第二次世界大戦が終わり、時代は再び変わる。かつて女性たちは服に実用性と快適性を望んでいたが、対戦中の貧しい暮らしが女性たちに華やかさと彩りを渇望させる。その時代のニーズを捉えて登場したのがクリスチャン・ディオールであり、彼が1947年2月に発表したニュールックである。

大戦中の厳しすぎるほどの質素と倹約の苦しさから「精神」を解放する、豪華で贅沢なニュールック。一着に数十メートルもの布をふんだんに使い、ウェストを絞り、そこなら花の蕾が開くようにふわりと足元へ広がるロングスカート。合わせた靴はハイヒール。女性の柔らかさと美しさを体現しながらも、コルセットのように女性の身体を拘束しない、自由と色気を併せ持つ新しいエレガンス。それが、クリスチャン・ディオールだった。

しかし、女性のウェストを絞り華やかさを全面に出すエレガンスは、女性のアクセサリー的役割を呼び戻すシャネルが忌み嫌っていたものだ。シャネルは強烈な怒りを覚える。自分のしてきたことを無に帰すような、ディオールのスタイルに。

そして1954年、シャネルはパリ・オートクチュールへ戻ってくる。自らの信念を体現したスタイルで再び。だが、復帰コレクションは散々な評価となる。1930年代には時代の最先端であったスタイルは、戦後の優雅さを賞賛する1950年代では時代遅れになってしまったのだ。

メディアや顧客からの散々な評価に、さすがのシャネルも落胆する。しかし、そのままで終わる彼女ではない。シャネルは逆境でこそ輝く女。

ここで露わになるのは、シャネルのリアリストとしての一面。自分の野望を叶えるためなら、かつてのプライドは捨てる。

復帰1回目のコレクションは赤字になる失敗だった。コレクションを継続するには資金が必要だ。そこでシャネルは動く。復帰コレクションの資金支援も行った、シャネルの香水事業を手がけるフランス大手化粧品会社のオーナー、ヴェルタイマーと交渉する。ヴェルタイマーはシャネル香水会社を立ち上げていた人物であり、シャネルは彼に、その香水会社の新事業としてクチュール部門を提案する。

復帰コレクションが失敗に終わったとはいえ、ヴェルタイマーは香水事業を継続する上でシャネルの要望は無視することができず、提案を受け入れる。これによってシャネルは雇用される側となって給料をもらう立場になるが、コレクションが継続できるようになる。

誰かの下で働く。かつてのシャネルには考えられない。しかし、それでもシャネルはディオールを始めとした新時代の古きエレガンスと戦う必要があった。女性を前時代へ戻すようなスタイルに、負けることはできない。それこそがシャネルのプライドだ。

苦境に陥ったシャネルを救ったのは、アメリカだった。パリでは散々な評価の服が、第二次世界大戦が終わり経済的にも政治的にも世界をリードしていくことになるアメリカで売れていく。ヴォーグやハーパーズ・バザーといったファッション誌もシャネル特集を行うほどに。アメリカのカジュアルを好む特性が、シャネルの実用的で簡素なスタイルとマッチしたのだろう。ただのカジュアルスタイルとは異なる、ラグジュアリーを兼ね備えていた一面も魅力になったと思われる。

世の中の風向きも変わり始めた。デビュー当初は賞賛を持って迎えられたディオールのスタイルだが、毎年ラインを新しくするスタイルに、現実の女性たちが追いついていけなくなる。戦前と代わり、使用人を雇うのも難しい経済的事情が、新しい消費の連続を難しくした。

そこで再び、豪華さと華麗さよりも、実用的で快適、それでいてラグジュアリーなシャネルへのニーズが高まる。シャネルは時代の変わり目を逃さない。あるアイテムがシャネル復活の狼煙を上げていく。シャネルスーツだ。

衿なしショート丈のジャケットには、金ボタンと縁取られたブレード、シャネルツイードの粗野な素材感がデザインに控えめな主張を打ち出し、膝下丈の同素材のスカートを合わすセットアップが華美ではない抑制された美しさを演出する。美しく見えて、動きやすい。言葉にすれば、なんとも単純明快。しかし、それで十分ではないだろうか。その二つの要素を満たす服があれば。シャネルの服は、豪華で贅沢な服を仕立てる他のクチュリエたちにはない魅力が潜んでいた。シャネルスーツが、再び実用性と快適さを必要としてきた時代の変化(特にアメリカにおいて)を捉え、シャネル復活の大きな要因となる。

シャネルは見事に復活を果たす。逆境は彼女の人生を彩るスパイスとなった。

ココ・シャネルのデザインアプローチを見てみると、クチュリエというよりもデザイナーという言葉が似合う。これからの時代に必要なプロダクトを時代の変化の匂いから敏感に嗅ぎ取り、賛否両論引き連れて時代の先へ行く提案を行う。そして、次第に時代が彼女に追いついてくる。デザイナーの中でも、先端的なタイプと言える。

彼女は服を作ろうとしていたというよりも、新しい時代の女性の新しい生き方をデザインしていた。その新しい生き方のために、服を作っていたと言える。20世紀初頭、服は今よりも「人間」を表しており、着ている服がその人の職種、果ては階級までを示していた。

その服を革新していったのが、ココ・シャネルだ。服を変えることは、今よりも困難さを伴っていた時代において、シャネルの行為は世の中の価値観との戦いであり、否定されようとも彼女は自分の信念を曲げず戦い続けていくことで、次第に彼女の支持者(顧客)を生み出していった。シャネルの提案する新しい生き方の魅力に、女性は気づき始めたのだ。

だからこそ、彼女はモード史において重要な存在であり続ける。そして何より「女性が仕事をして自立をする」というモードを超えた価値観を作り出した功績は、とても大きい。現在では当たり前の価値観を、作り出した人物と言えよう。

現在の世界のベーシックを作り出した女性。ココ・シャネルは新しい時代の新しい価値観をデザインした。その生涯がモードであり美しい。

〈了〉

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