『言の葉の庭』とアントワープファッション

AFFECTUS No.66

お正月に録画した新海誠監督の『言の葉の庭』は、ずっとハードディスクに保存されたままで、再生されることはなかった。ようやく観たのは、録画後1ヶ月が経過した2月だった。

僕はドラマを観ることは好きなのだが、映画を観ることがどうにも億劫で、普段あまり観ることがない。だから、なかなか『言の葉の庭』を視聴する気分にはなれず日数が過ぎていった。けれど、その重い腰を上げ、ようやくこの映画を観終わって最初に思ったこと、それは「もっと早くに観ていれば良かった」ということ。想像以上の素晴らしいストーリーに驚いた。

「おいおい、雨降りすぎじゃねーか」
「やべー俺も靴作っちゃおうかなー」

などと軽薄なことを思いながら途中まで観ていたのだが、ラストシーンで主人公の男子高校生と女性高校教師の二人が、互いに胸の内に溜め込んでいた感情をありのままにさらすシーンがとても美しく、新海誠作品の特徴である映像美よりも、この二人の感情が露わになる瞬間が最も綺麗で最も気持ちの高鳴るシーンだった。

人間がありのままにその感情をさらす。その感情はネガティブな感情であってもかまわない。普段見せることのない、見せたくない感情は誰にだってある。その感情をストレートに表現された時の美しさ、そこに僕はいつも心が揺さぶられてきた。だから、人間の心の機微が表現される小説が好きなんだろうし、人間の強さも弱さも区別することなくすべてさらけだしてやろうという、凄まじいまでの意気込みと覚悟が曲から感じられていた昔のMr.Childerenが好きなんだろう。

ファッションにおいてもそうだ。

僕が好きだったデザイナーたちがいる。それは2000年前後のアントワープ勢だ。ドリス・ヴァン・ノッテンやアン・ドゥムルメステールといったアントワープ6たち第一世代の次に登場してきた、ヴェロニク・ブランキーノ、リープ・ヴァン・ゴープ、ラフ・シモンズといったデザイナーたちだ。

僕がアントワープの服に惹かれたのは、服そのものに革新性があったからではない。当時のアントワープ勢はその高い注目度とは裏腹に、服自体はベーシックがベースになっていることが多く(もちろん例外はある)、同じアントワープでも、マルタン・マルジェラみたいに服を問い直すデザインではなかった。

僕がアントワープのデザイナーたちに惹きつけられた理由、それは彼ら彼女らの作る人間の弱さに優しく手を差し伸べるダークロマンティックな世界観だった。人間の弱さを肯定するアントワープの世界は暗い(少なくとも私にはそう感じられた)。

しかし、そこにある暗さは射し込む一筋の光を見上げた時に見える闇だ。絶望で覆い尽くされた暗黒の闇ではない。かすかに見える希望の灯火に照らされた闇だった。弱々しくとも、そこに向かって歩く力を与えてくれる。アントワープの世界には、そんな優しい弱さがあった。あれから20年近く経った今でも、僕はアントワープのデザイナーたちの作った服が好きだ。

最近、思う。

好きなことを好きと言うことが、言いづらくなった世の中だと。

インターネットは世界を変えた。誰もがいつでも自分の声を発することが可能になり、そして、その声は誰でも聞くことができ、テクノロジーの進化は世界中へ届けることを可能にした。

インターネット登場以降、人は自分の価値観をそれまで以上に重視するようになる。一方で、それまで以上に自分の持つ価値観とは異なる価値観への許容度が小さくなったようにも思う。

自分と異なる価値観や考え、意見といったものに出会うと、それを見過ごすことができず攻撃的に否定するケースが増加したように思える。今、多様性が主張されるのは、人々が異なる価値観への許容度が狭くなったことへの裏返し、それらへのカウンターとして起こった現象とさえ僕には思えてくる。そういう世界になったことで、好きなことを好きと言うことに窮屈さを感じても不思議ではない。

否定されないように、インターネット上での声は当たり障りのない表現にとどめる。自分の好きなことを語るだけにもかかわらず。もしかしたら、自分が好きな小説や映画、音楽なのに、世間では評判が悪いがゆえに「自分の好き」を語り伝えることを控えてしまう人もいるのではないだろうか。

果たしてそれが、インターネットにおいて良いことなのだろうか。せっかく誰もが自由にコンテンツを発表できて、世界中の人々がその面白さを享受できるシステムだというのに。

否定されることを好む人間はいない。僕もそうだ。だからこそ、そういう時代だからこそ、僕は言おうと思う。ファッションが好きだ、と。モードが好きなんだ、と。

モードは時代の新しさを作ることへの挑戦だ。例え、人々がまだ欲してなくとも「次」へ時代を動かす必要がある。モードにはその時の人々の感覚を超えたところに潜む、次の新しさを作る宿命がある。人々が今の新しさを飽きる前に、次の新しさを作り出す。

その挑戦を見ることが、僕はたまらなく好きなんだ。

そして今、ファッションは再び個性を表現する手段へ回帰し始めた。

SNSが登場し、そのユーザー数が拡大するにつれ、ファッションへの関心が薄れるようになったと言われてきた。その理由は、個性を表現する手段として果たしていたファッションの役割を、SNSが代替するようになったからだと分析されている。

しかし、Instagramの登場が再びファッションの状況を変えた。世界中で爆発的人気となった、このサービスが「個性を表現する役割」をファッションへ回帰させる。Instagramにアップされた膨大なスタイリング写真は、今や再びファッションがその役割=個性の表現を取り戻したことを証明している。皮肉にも、ファッションを復活させたのはファッションに取って代わったはずのSNSだった。

先日、#ヨウジヤマモトでInstagramを検索すると、そこにはモードの中のモード、とびっきりの個性=ヨウジヤマモトを着る若者たちであふれていた。

彼ら彼女らには「高い服を買うのはダサい」「モードはダサい」という声を気にする様子が微塵たりともない。ヨウジヤマモトを着ることを誇らしく思う自信が、若者たちの表情には満ちていた。

まだまだ、モードを着る若者の数は少ないかもしれない。しかし、「高い服を買うことはダサい」「モードはダサい」と言われ続けてきた時代に、若者たちの間にモードを着るという「新しい動き」が芽吹き始めた。

新しい動きは、登場し始めたころは無視されてもおかしくない小さい数字であることが多い。しかし、革命はいつだってそうだ。小さな波で始まり、その波は次第に大きくなり、やがて世界を一気に更新していく。このモードを着るという古くも新しい動きを、「そんな人間はまだまだ少ない」として退けるか、「モードがダサいと言われ続けてきたのに、こんなに増えだしたのか」と注目するか、その捉え方次第でその後の行動は変わり、その行動がもたらす結果も変わってくる。

ヨウジヤマモトを着る若者たちは、それが男性であれ女性であれ、その姿には世間の評判なんて気にせず「自分の好き」を自信を持って好きと叫んでいるように思え、それが僕にはとても逞しく見えた。

僕は彼ら彼女らの姿にワクワクする。ファッションを通して、自分の好きなことを好きと言う姿勢に。

誰だって否定されることは好まない。しかし、誰かの意見によって自分の好きを捻じ曲げることを僕は嫌う。だから、僕は好きなことを好きと言い続けたい。『言の葉の庭』で、ありのままの感情をぶつけ合った二人のように。

歩みを進めていこう。

否定されようとも、共感されなくとも、揶揄されようとも、光の射す方へ。

〈了〉

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