タブーを犯す美しさ -ヨウジヤマモト1999SS-

AFFECTUS No.91

これまで僕はヨウジヤマモトについては何度も取り上げ、書いてきた。つまり、それだけ僕が山本耀司の才能を尊敬していることの証明だ。天から授かったカッティングの才能は世界随一。天才と称するのは大げさではない。

布を使い、人間の身体を美しく見せることに関して山本耀司は、世界最高峰だ。日本人デザイナーで、クラシズムあふれるエレガンスを表現できる彼の領域に達している人間はいない。その領域に近づいているのは、渡辺淳弥ただ一人だ。

現代ファッションデザインの潮流を考えると、山本耀司のような技術から感性を育み、その美意識を表現するタイプの古典的デザイナーは、今後の日本からは現れないのではないかとさえ思えてくる。絶滅危惧種と言ってもいい。

逆に言えばそういう古典的タイプでありながら、作る服が現代のトレンドを捉えたモダニティを備えているデザインであるなら、そのデザインを生んだデザイナーは僕にとって極上と言うほかない。

僕が思うヨウジヤマモトのベストコレクションは2003SSコレクションだ。

それは、ここで何度も語ってきた通りである。オートクチュール開催期間にプレタポルテを発表。贅を尽くしたオートクチュールに対して、生地のほとんどが簡素な綿であり、緻密な技巧を凝らした装飾性要素は皆無で、カッティングで女性の身体が持つ美しさを最高級に引き出したコレクションは、山本耀司生涯最高のコレクションだと僕は確信している。

だが、もう一つ、僕には最高のコレクションがあった。今の山本耀司では決してもう作ることはないであろう、クラシックの極みに到達したエレガント。それが1999SSコレクションになる。

エレガントなだけではない。ユーモアも込められた最上のコレクション。1999SSコレクションの何が僕の心をそんなにも震わしたのか、それについて今日は可能な限り考察したいと思う。そして、そこには、いったいどんなファッションデザインの論理が潜んでいるのかについても考えてみたい。

僕の視点から、この1999SSコレクションを紐解こう。

僕がこのコレクションを初めて見たのは、文化服装学院に在学中の2004年から2007年のどこかだろう。詳細な記憶は残っていない。

このコレクション、言えることが一つある。写真ではなく映像で観るべきだということ。1999SSコレクションの素晴らしさは、写真では伝わらない。服だけではなく、観客席の雰囲気も最高なのだ。このコレクションを当地でライブで見た人間には嫉妬する。

真っ白なフロアのスクウェアなランウェイ。ウェディングでおなじみのメロディが流れる中、ファーストルックが登場。全身白のスリムなシルエットのロングスカートとトップスのルック。次に登場するのは、同じく全身白でありながら、今度はジャケットとパンツのセットアップ。しかし、その印象はドレスを着ているかのようなドレープ性とエレガンスを漂わし、モデルの歩行に合わせ白い布は優雅に揺れる。一言、美しい。

このコレクションの核となっているのはウェディングだ。

山本耀司はエレガンスの極致であある「ウェディング」を料理していく。パリコレクションという舞台で。

このコレクションが発表されたのは、1998年になる。その時代、ファッション界をリードしていたのはミニマリズムであり、その代表的デザイナーと言えるのは、かのヘルムート・ラングだ。

クールでソリッドなミニマリズムが支配していた時代に、ミニマリズムとは別軸のクラシックなエレガンスを備える、そこには装飾性も備えたウェディングをテーマにしたことが、とても興味深い。

山本耀司ならではの時代への反発心が見られる。やはり、山本耀司は時代にケンカを売るのが好きな人間なのだ。

話をコレクションに戻そう。

ウェディングと言っても、色は白ばかりではない。山本耀司のアイデンティティカラー、黒も登場する。その頻度は白を上回る。

黒いドレスを着て、その上に黒いジャケットを着てモデルは登場する。その姿は確かに黒なのだが、印象はウェディング。ただし、そこには不可思議なニュアンスが潜む。ジャケットがそうさせるのか、男性の面影を感じさせるのだ。

女性が一人で現れたはずなのに、男性と女性が同一に存在して、一人の女性が新婦でもあり新郎でもある。この奇妙で不思議な感覚に私は浸る。

1999SSコレクションで最も印象に残っているシーンがある。このシーンがあるからこそ、僕は1999SSコレクションが素晴らしいと思えたのだ。

ショーの終盤、女性モデルがトレーンを引きながら、黒いウェディングドレスを着て現れる。真っ白なスクウェアなフロアの中央端に立ち止まったモデルは、ゆったりと前進を始める。反対側の端まで歩みを進めると、モデルは振り返り元いた場所へ歩き始め、フロアの中央でドレスの胸元に手をかけ、一枚脱ぐ。すると、その下からはウェストからヒップを美しくなぞり、床に向かって波紋が広がるようなトレーンのブラックドレスが再び姿を現す。

そして、フロアの端まで行くとモデルはすぐに振り返り、歩いてきた道を戻り始める。先ほど脱ぎ捨てられた黒いドレス近くに差し掛かると、モデルはまたも胸に手をかけ、ドレスを一枚脱ぐ。現れるのは黒地にベージュのドットドレス。

観客はため息とともに静かに賞賛の声を上げる。

「参った。もうよしてくれ」

美しさにこれ以上酔わせないでくれ。そう嘆願するような賞賛の声。

しかし、モデルは歩みはやめない。再び振り返り歩き始め、フロア中央にたどり着くとベージュのドットドレスを脱ぎ捨てる。現れたのは、ロング&リーンのレース模様が透かして見えるブラックドレスだ。

モデルは中央を通り過ぎ、フロア端まで歩くと振り返り、一瞬の間を置く。前を真っ直ぐ見据えるモデルの表情が凛々しい。

一歩進む。さらに一歩。そしてもう一歩。モデルは胸に両手を掛ける。

そこで観客席から漏れる声。

「もしかして、胸を晒すのか」

そこには男性も女性も区別なく、本来なら見られないはずの美しさ=女性の露わになった胸が、ここで見られるのかという期待への声が漏れ出していた。

しかし、モデルはその期待を裏切る。胸元に掛けた手はそのままドレスを脱ぐことなく、急に方向転換し、フロアから姿を消す。

その瞬間。

観客は自分たちの期待が裏切られたことを知るが、その演出に笑いがこぼれる。

暖かく笑え、美しく酔う。それが見事に表現されたショーだった。

1999SSコレクションの魅力はタブーを犯した先の美しさを期待させる、その心持ちだ。

ウェディングという最高に幸せな場に黒いドレスを登場させる。そのほとんどが女性モデル一人で登場。男性モデルが一緒に登場するシーンもあるが、それは2回だけだった(僕の確認できた範囲では)。

ヴァージンロードを一人で歩く女性が、黒いウェディングドレスを脱ぎ始める。そのどれもリアルで見ることのできないタブーにあふれている。

でもそのタブーは、見られるものなら見てみたいと切に願う類のタブーだ。山本耀司は、それを聴衆の前で形にする。その卓越したカッティングの才能でもって。

世の中には人間が見てみたいと思うタブーがある。それを表現することは、人の目を惹きつけ、心を震わす。しかし、ただ見せるだけではいけない。そこには、デザイナーのアイデンティティを乗せる必要がある。

山本耀司ならそれは「黒」であり、「男性」であり、「女性の身体」だ。女性の身体に黒い男性の服を着せた時の美しさ。それが山本耀司の文学性。その文学性を、クールでモダンなミニマリズムというトレンド=コンテクストに対してカウンターとなる、デコラティブでクラシックなエレガンスのウェディングに乗せて表現する。

そのような重層性を持った論理を駆使して生み出された、誠にクリエイティブなコレクション。それがこのヨウジヤマモト1999SSコレクションだ。

タブーを犯すことは、ファッションデザインの歴史でもある。このコレクションは、ファッションデザインの歴史そのものを小宇宙空間に表現したような濃縮性がある。ゆえに美しい。

この時期の山本耀司の才能は極上の輝きを放っている。山本耀司の手にかかると、布は女性の身体の上で美しくそびえ立つ。あの布の表情は国内外含めても表現できるデザイナーはいない(渡辺淳弥なら近づけるかもしれない)。

現在の復活を果たしたヨウジヤマモトの魅力は、グラフィックだ。たしかにそれもいい。トレンドに乗り、デザイナーの文学性を濃く深く表現している。ストリートへのカウンターにもなっている。見事なデザインだ。

だが、やはり私にとっての山本耀司最大の魅力はカッティングだ。グラフィックが全面に出ると、その才能がぼやけてしまう。そこに私は寂しさも感じる。

トレンドは回転していく。その回転が巡り巡って、山本耀司最高の才能が最大限に発揮されるコレクションが再び見られる日を私は願う。

古典の香り溢れる現代性備えた服が見られる日を。

〈了〉

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