マルタン・マルジェラ論 -1990AW-

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AFFECTUS No.108

これまで文脈的意味合いとして「トレンド」という言葉を使ってきた。しかし、その姿勢を改めることにしたい。今後は「コンテクスト」を使うことにする。その方が、読み手の理解をスムーズにすると感じたからである。

「トレンド」はある時期の流行を示すという意味で使っていきたい。そこには人気商品や売れ筋商品といったビジネス的匂いも込めて。二つの言葉をそのように区別した方が良いと判断した。

冒頭から話が逸れたが、本題に入ろうと思う。

マルタン・マルジェラがデビューし、1990AWシーズンで4シーズン目になる。マルタンは、自身の世界をコレクションを重ねるごとに深めていく。

ショーはいきなりアフリカンパーカッションのライブ演奏からスタート。一拍置いたタイミングで、モデルたちが一連となって姿を現すのだが、その姿が従来のファッションショーとは一線を画す。悪く言うと乱雑で適当なウォーキングだ。よく言えば自由と言える。

綺麗な歩行姿勢とリズム、均一な間隔で整えられたウォーキングではない。

「とりあえず距離を開けて歩く」

モデル同士の距離感には、そう言えるような適当感がある。そこに、囃し立てられるパーカッションのリズムが乗ってくるので、観ていてもノイズが先走ってきて観念が揺さぶられてくる感覚に陥る。

はっきり言って心地いい感覚ではない。だが、ゆえに気になり始める。「なんなんだ、このコレクションは」と。マルタンのコレクションで革新的なのは、この点だろう。

デザインにノイズを起こし、そのデザインの背景へ感覚を誘う。ファッションを「考えさせる行為」へ仕向けていく。その引力が、服のインパクトよりも大きい吸引力を働かせ、コレクションの印象が記憶に深く刻まれる。

これはデザインのアプローチとして興味深い。人々が通常抱く綺麗と感じるもの。そこに、綺麗を成す構成要素にバランスを崩した要素を組み込むことが、ノイズを引き起こす現象に繋がる。マルタンはファッションデザインの既成概念に揺さぶりをかけていく。

誤解を恐れずいえば、基本的にマルタンの服はシンプルだ。ジョン・ガリアーノのように、強烈な造形や装飾で一目見て際立つ印象を想起させるものではない。今回ピックアップした1990AWにしたってそうだ。引き裂いたニットやTシャツ、褪せた素材感のサイハイブーツ、身体のラインをスリムになぞるロング&リーンのシルエット、古着屋の中でも一番安い服を選んで組み合わせたようなスタイルはみすぼらしく見え、ファッションの華やかさからは程遠い。

だが、当時の1980年代から続くゴージャスなコンテクストから見れば、この「みすぼらしさ」には、時代の転換を促すインパクトがあった。

ここで一つ、重要なことに気づく。

ファッションデザインのインパクトは、服自体の派手さが生むものではないことに。重要なのはコンテクストに乗り、それまでとは異なる解釈を示すこと。このアプローチがファッションデザインにインパクトをもたらす。デザイナーにとって鍵となるスキルは、コンテクストを正しく捉えること。それが、マルタンのコレクションを観ていると如実に感じてくる。

マルタンの全盛期はデビューの1989年から約10年間だと考えている。その時期に発表されたコレクションには、強烈な引力がある。だが、2000年代に入ると、そのような引力が薄くなった。「見捨てられたものの美しさを問う」というマルタンのベースとなるファッションスタイルは大きくブレてはいないのだが、一目見て「なんなんだこれは!?」と混乱を引き起こされることはなくなった。

それは時代のコンテクストが一因ではないかと推測する。マルタンの提唱したシャビーファッションは時間の経過とともに世界へ浸透し、かつては革新的だったファッションも一つのスタイルとして根付いた。我々の目と感覚の馴れが、マルタンから初期の新鮮さを奪った。

マルタンは天才だ。モード史に残る大天才といえよう。しかし、そんな大天才といえど、コンテクストの前では輝きを失う。つまり、ファッションデザインの価値を決めるのはコンテクストだ。現在、デザインにどのような流れが起きているのか、そしてその流れがどのようになっていくのか。そのコンテクストを正しく的確に把握し、自らの視点を解釈として服という形にして提唱する。そのインテレクチュアルな行為の連続が、ファッションデザインだと言える。

ただ、00年代に比べると、初期のマルタンは自らの価値観を濃く投影している。1990AWを観ていると、後期の00年代のようなおとなしさはなく、研ぎすましたキレがある。世界への訴求がまだまだ足りない。世界は間違っている。それほどのエネルギーを、初期のマルタンからは感じられてくる。

1990AW当時の資料を読むと、マルタンは裏地を表地として使用し、巻きスカートのウェイター用エプロンも発表していた。ここにマルタンの思想が色濃くにじむ。みすぼらしさの中の価値を見つける。その価値観はマルタンの中で不変だ。

しかし、その価値観もコンテクストの流れ次第では魅力を失ってしまう。ファッションデザインにおいては、いつどんなデザインを投入するかというタイミングも重要だ。タイミング次第で、デザインの価値は0にも100にもなる。それが「時代を読む」という行為なのだろう。

デビューコレクションから気になっていたことがある。マルタンは同じスタイルを、一つのショーの中でしつこいぐらいにリピートして発表することだ。厳密に言うと全く同じではなく、ルックごとに微妙な変化はあるのだが、印象としては「同じスタイル」になる。

1990AWでいえばサイハイブーツを組み合わせたスタイルがそうといえよう。ファッションは新しさが命だ。

では、新しさとは何だろう?

新しさとは「異なること」だと、この場では定義したい。異なることが、新鮮さを生み出し、人を惹きつける。商品同質化現象が、消費者から商品への関心を奪うことは現代を見ればわかることだ。

マルタンは、同じスタイルを繰り返し発表する。そこにもマルタンの提唱するみすぼらしさ=シャビーファッションが表現されていると考える。新しさの否定という問いが、マルタンのファッションデザインだ。マルタンは「問題」をデザインしていく。そのアプローチとして、服だけでなく同じスタイルを繰り返し発表するという行為で行う。マルタンはファッションデザインの領域を幅広く捉え、それを形にする能力に秀でている。

今回のマルタン・マルジェラ論ではコレクションのデザインを読み解くことよりも、1990AWコレクションから生まれた私の思索を述べることが多くなった。マルタンのコレクションには、ファッションを語らせる力が働く。

このシリーズを続けていく中で、マルタンは何を語らせてくれるのか。それが楽しみになった1990AWコレクションだった。

〈了〉

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