AFFECTUS No.111
今年2018年は、ステファノ・ピラーティが本格的にファッション界への復帰を果たす年となった。ピラーティは2016年にエルメネジルド ゼニアのヘッド・デザイナー退任以降、新たにハイブランドのディレクター職に就くことはなく、マイペースの活動を続けていた。
だが、2018年11月、ピラーティ自身初のシグネチャーブランド「ランダム アイデンティティーズ」を発表する。しかもオンラインセレクトショップ「エッセンス」のモントリオール本社で、ショーを開催するというサプライズと共に。
2019SSシーズンの新作コレクションの発表時期だった9月と10月から外れた時期の11月、しかもパリやミラノではなくカナダのモントリオールで発表という、モードの中心でキャリアを重ねてきたピラーティからは意外と思えるアクションだった。
今回からピラーティをテーマに、全2回に渡って書いていきたい。当初は通常通り1回で収めようと思ったのだが、いざ書き始めると想像以上にボリュームアップしてきたため、前編と後編の2回に分割したい。
前編となる今回はピラーティのキャリアを振り返る。そして次回の後編は彼のデザインを読み解いていきたい。ピラーティのデザインのベースはクラシックだ。クラシックをベースに、彼はデザインを展開していく。その傾向を詳しく読み取れるのが、2004年から2012年までクリエイティブ・ディレクターを務めたサンローラン時代であった。
今ではどのメディアでも取り上げられることのないサンローラン時代のピラーティのデザインに焦点を当てながら、エルメネジルド ゼニア、ランダム アイデンティティーズのデザインへと繋げていきたい。
それではまず今回は、ピラーティのキャリアを振り返っていこう。
ミラノ出身のピラーティは、1993年帝王ジョルジオ・アルマーニでメンズウェアのアシスタントとして、キャリアをスタートさせる。1995年になると、彼はプラダへと移り、ファブリックの調査担当という仕事を務めることになる。
そこでキャリアを重ねたピラーティは1998年、ミュウミュウのアシスタントデザイナーに就任し、モード界の鬼才ミウッチャ・プラダの下でデザインスキルを磨くことになる。その期間は2000年までの2年と短期であったが、「悪趣味なエレガンス」を作り出すミウッチャのアプローチを経験したことは、その後のピラーティのファッションデザインに大きな影響を与えたのではないかと推測する。
2000年、ピラーティは活躍の場をイヴ・サンローランへと移し、トム・フォードとサンローランの刷新に挑む。同年、ウィメンズウェアのデザインディレクターに就任、2002年にはアクセサリーを含むサンローラン全体のデザイン・ディレクターを務めるまでになる。
そして、2004年にトム・フォードがグッチを去ることになり、それに伴いトム・フォードはサンローランのクリエイティブ・ディレクターも退任する。ピラーティはトム・フォードの後継者に指名され、遂にはサンローランのクリエイティブ・ディレクターにまで昇り詰めた。
このようにピラーティがキャリアを積んできたブランドは、超一級のハイブランドであり、まさにモード界のエリートと言えよう。だが、その道のりは派手ではなく、段階を踏んでステップアップする堅実なものだった。
アレキサンダー・マックイーンやジョン・ガリアーノのように自らのシグネチャーブランドをスタートさせ、そこで高い評価を勝ち取り、華々しくハイブランドのディレクター職に指名される。ピラーティのキャリアは、そんな天才たちのプロセスとは無縁だった。彼は所属するブランドで評価を高めながら頂点にまで昇り詰めた、誤解を恐れずいえば地味なタイプだった。
あくまでキャリアだけに絞って言えば、モード界のエリートでありながら「天才」ではない。
サンローランのクリエイティブ・ディレクターに就任したピラーティはブランドのビジネスを成長させる。グッチグループに買収された当時のサンローランはグッチグループの拡大戦略が成功せず、2003年には営業損失が7640万ユーロ(当時のレートで約81億7400万円)にまで膨らんでいた。
しかし、ピラーティはその危機からメゾンを救う。2011年通期決算で前年比131.4%の3億5370万ユーロ(約378億4500万円)、営業利益は前年の4倍以上の4090万ユーロ(約43億7600万円)にまで成長させた。
だが、見事な結果とは裏腹にピラーティはメゾンの重鎮から冷遇されていた。創業デザイナーでありパリモードの伝説、イヴ・サンローランは2005年にピラーティのデザインについて聞かれ、こう答えている。
「いいものもあるが、あまり良くないものもある」
イヴ・サンローランがピラーティのデザインを、あまり気に入っていないことが推測される言葉である。
ピラーティに対する評価の低さはイヴ・サンローランに限った話ではない。イヴ・サンローランと共にメゾンを設立し、彼の生涯のパートナーであったピエール・ベルジェも同様であった。2010年にパリで開催されたサンローラン回顧展のオープニングガラに、ベルジェはピラーティを呼ばなかったのだ。
メゾンを危機から救い、クリエイティブのトップである現役のクリエイティブ・ディレクターを呼ばないというのは異常と言ってもいい。結果的に、ピラーティはビジネスで成果を出しながらもサンローランを去ることになる。彼の後任となったのはエディ・スリマンだった。
しかし、この選択はビジネス的には大正解だった。ピラーティの後任としてディレクターに就任したエディ・スリマンは、就任期間の4年で約3倍にまで売上を爆発的に伸ばし、2016年には約12億ユーロ(約1488億円)にまで到達する。ピラーティの功績が霞むほどの、エディ・スリマンの見事な手腕だった。
2012年にサンローランを去ったピラーティだったが、次の仕事はすぐに決まる。2013年1月、イタリアが誇るメンズラグジュアリー、エルメネジルド ゼニアのヘッドデザイナーに就任する。ピラーティはそこで自身のDNAである「クラシック」を発揮する。だが、その期間が長く続くことはなかった。
2016年、ピラーティはエルメネジルド ゼニアのヘッド・デザイナーを退任する。2016AWシーズンが、エルメネジルド ゼニアにおけるピラーティのラストコレクションとなった。
エルメネジルド ゼニアの退任以降、ピラーティは活動の拠点をベルリンに移す。彼はファッションデザインの仕事から距離を置き、それまでのモードの喧騒から離れるように自分のペースで活動していく。ベルリンのカルト的人気を誇るマガジン『032c』のスタイリングを手がけ、2017年6月の2018SSパリメンズコレクションでは、若手ブランド「ゲーエムベーハー(GMBH)」のプレゼンテーションに、なんとモデルとして登場し皆を驚かせる。
このようにゼニアを去って以降、ファッションデザインから距離を置いていたピラーティだが、2017年6月に面白い試みを行う。彼の新デザインを、24時間で投稿が消えるInstagramのストーリーズに全17ルックを発表したのだ。
発表された17ルックは、彼のシグネチャーブランド「ランダム アイデンティティーズ」のデザインだったのだ。ピラーティは、シグネチャーブランドのスタートを示唆する。
ストーリーで発表された17ルックは完成品ではなく試作品であった。Instagramのストーリーで新デザインを発表することも面白い試みだったが、完成品ではなく試作品をあえて公表したことも、それまでのファッション界では見られらなかった斬新なアプローチだった。
デザインが完成するまでのプロセスを公開するという方法は、見る者の期待感を煽り(しかも24時間で投稿が消えるInstagramのストーリーズで)、注目度を高めるマーケティング効果もあった。
このアクションで、ピラーティのシグネチャーブランドへの期待は否応なく高まった。それだけではなく、ストーリーズへの投稿にはピラーティ自身の明確な意図もあった。
「性差を超えた選択の自由」を表現したいと言う。広告などに左右されない、個の表現をサポートしたい考えだ。メンズとウィメンズの違いや、シーズン性の薄いコレクションは、生産せず、販売もしない。ピラーティは、「自分のブランドを正式に立ち上げるかもしれない。立ち上げるなら、価格とバリューのバランスを追求する。まずはインスタの反応を見てみたい」WWD JAPANより
コレクションを完璧に完成させて発表するというファッション界の慣習に倣うのではなく、Insgramで試作品を発表し、その反応をリサーチする。そうやってデザインの精度を高めていく。これが、ピラーティがストーリーズを使った意図だった。
同時に彼のシグネチャーは、時代のコンテクストを意識していることも示唆している。それはジェンダーレスである。ピラーティは時代の必須科目に取り組むことを宣言した。
ストーリーズでの発表は1回では終わらなかった。2018年1月、ピラーティは再びストーリーズにルックを発表する。今度のルック数は15ルックだった。前回と比較すると、デザイン性とジェンダーレスの要素が強まっている。前回のストーリーズでの発表によって得られた反応から、改善を試みたと思われる。もちろん、この15ルックも試作品であり販売しないことをピラーティは明言している。
このようにピラーティは、シグネチャーブランドをスタートするにあたって堅実なアプローチを見せている。それはまるで彼のキャリアをなぞるような堅実さだ。2回のストーリーズ投稿を経て、2018年11月ランダム アイデンティティーズはデビューする。
後編となる次回は、ピラーティのデザインを読み解く。彼のデザインの特徴とは何か。そこにフォーカスする。前半で述べた通り、サンローラン時代のデザインを中心に考察する。今回のテーマを扱うにあたり、私はピラーティのサンローラン時代の12年間の全コレクション、エルメネジルド ゼニア時代の3年間の全コレクション、そしてデビューコレクションとなったランダム アイデンティティーズを全て目を通してみた。
その過程で感じられたピラーティのデザインの特徴を、次回では言語化してお伝えしたい。
参考資料
WWD JAPAN 2012年3月5日号
VOGUE JAPAN「ステファノ・ピラーティ/Stefano Pilati」