AFFECTUS No.159
ファッションはビジネス。ゆえにファッションデザインの目標は消費者に「欲しい・着たい」と思わせる服を作ることだと私は考えている。消費者の購買意欲を刺激する服を作ることができなければ、ブランドは存続できなくなる。どれだけ崇高なメッセージやビジョンがあろうとも、売れ続けなければブランドは消滅してしまう。これは避けようのない現実で、決して逃れることはできない。
世の中には売れ続けるブランドと、ブランドをクローズするまでには至らないが、ビジネスが小規模あるいは伸びないブランドがある(ブランドがその規模感のビジネスを望んでいるケースは別だが)。
ビジネスが小規模のブランドに素晴らしい才能を持っているデザイナーもいるが、ブランドのビジネスがその才能から受ける印象とは異なり、伸びていないケースがある。売れ続けてビジネスが成長するブランドと、そうではないブランド。その差はどこから生じるのか。
市場で人気を獲得し、ビジネスも伸ばしてきたデザイナーのデザインを観察していき、共通点があるかどうか、そこを見出すことでファッションデザインの成功率(売れること)と再現性(売れ続けること)を高められるのではないかという考えがある。
もちろん服が売れる・売れないは、単純にデザインだけが理由とは限らない。商品の販売場所・時期・購入方法などの要因が絡んでいるケースも多い。極端な例にはなるが、たとえば20代のスポーティなスタイルを好む女性向けデザインのブランドを、老舗百貨店のフォーマルがメインのミセスフロアで販売しても売れるのは難しいだろう。ブランドターゲットと販売チャネルの関連性は非常に重要だ。
だが、今回はデザインに焦点を当て、話を進めようと思う。売れ続けるブランドと、そうではないブランドのデザインの差とは何かを考えていきたい。
僕の好きなデザイナーにフセイン・チャラヤンという人物がいる。素晴らしい才能を持ったデザイナーだ。1970年生まれのチャラヤンはキプロスの首都ニコシアで生まれた、母国語をトルコ語とするトルコ系キプロス人である。チャラヤンが12歳の時、彼の両親は離婚する。そのことが理由でチャラヤンは父親と共にイギリスへ渡る(父親はイギリスでレストラン経営を行い、成功する)。
イギリスで育ったチャラヤンは、ロンドンの名門セントラル・セント・マーティンズに入学し、4年間を過ごすことになる。1993年、チャラヤンはセント・マーティンズの卒業コレクションを友人宅の裏庭に埋め、衣服が土の中でどう腐敗していくのかを研究した。土の中に数ヶ月間埋められたシルクドレスは、ロンドンのセレクトショップ「ブラウンズ」のショーウィンドウを飾り、チャラヤンの才能は世に知れ渡ることになる。
卒業後、すぐに自身のブランドをスタートさせたチャラヤンは、創造的かつ思索的コレクションを意欲的に発表し、そのどれもが見ている者に「ファッションとは何か」という問いを投げかけているようであった。
僕がフセイン・チャラヤンのデザインを決定的に好きになるきっかけは、2002SSコレクションを見たことだった。ショーに登場する女性モデルたちが着用するドレスは、薄汚れてボロボロ。捨てられていた衣服の残骸をかき集め、布の断片をつなぎ合わせてドレスに仕立てた。そう表現するのがふさわしいドレスだった。しかし、そのドレスを身に纏った女性モデルたちには儚い美しさが漂い、とても詩的で、僕はこのコレクションを見たことでチャラヤンのファンになる。
2002SSコレクション以前のデザインで印象深いのが2000SSコレクション。「アフターワーズ」と題されたこのコレクションは、トルコ系キプロス人であるチャラヤンが1974年の国家南北分断以前にキプロスで民族浄化にさらされた過程の考察からデザインを展開し、難民の苦境や、戦時中に突然我が家を強制的に去らねばならない恐怖を、ファッションへと具現化している。
ショーは通常のランウェイではなく、ある家の部屋を模したような舞台で発表される。舞台にはテレビ・テーブル・椅子が配置されており、その舞台へ入ってくる女性モデルたちはカッティングに特徴はあるが基本的にはシンプルで都会的なデザインの服を着ている。しかし、シンプルであるはずの服がコレクションの進行と共に変化する。とりわけ強いインパクトを放つのが終盤に披露されたデザインである。部屋に配置された椅子はバッグに、テーブルはスカートに変貌し、宗教歌のような荘厳な生演奏のBGMを背景に女性モデルたちは横に並び、突然舞台は暗転し、ショーは終わる。
このようにチャラヤンのコレクションはコンセプチュアルであり、先述しように我々に深い問いを投げかけてくる思索的なデザインを披露する。
素晴らしい才能だと僕は思う。世界でも唯一無二と思えるほどに。だが、チャラヤンのブランドビジネスは、才能の印象ほどには拡大していない。チャラヤンは自身のブランドだけでなく他ブランドのデザインを行っていた時期もあり、1998年には「セイ・ニューヨーク」のデザイナー、2008年プーマのクリエイティブ・ディレクターに就任、2014年には「ヴィオネ」の最高級ライン、デミ・クチュールのデザイナーに指名された。
しかし、そのいずれも、現代のファッション界を席巻するストリートブランドのデザイナーたちが巨大スポーツ企業と行うコラボのような、大成功と言える成果はあげられていない。
なぜなのだろう。
僕がこれまでピックアップしてきたデザイナーたちとフセイン・チャラヤンのデザインに、二つの違いがあると感じた。
一つのオリジナルスタイルの確立である。
たとえばエディ・スリマンとデムナ・ヴァザリアは、ビジネス的に大成功しているデザイナーであり、彼らはロック&スキニー、ストリート&ビッグシルエットといったように、いずれも自身のオリジナリティを投影したスタイルを確立しており、名前を聞くだけで彼らのスタイルが連想されてくる。エディとデムナに限らず、人気デザイナーたちはいずれもオリジナルスタイルを確立し、そのスタイルを見た者に「着たい・欲しい」という刺激を起こしている。
翻ってチャラヤンはどうか。たしかに彼のデザインは素晴らしい。だが、フセイン・チャラヤンという名前を聞いた時に、エディやデムナのようにオリジナルスタイルをすぐに浮かべることができるだろうか。私には困難であった。チャラヤンのデザインは、美術館で観賞するアートのように感じられ、視覚的に楽しむ分には申し分のないデザインだが、生活の中で着て楽しみたいと思うファッション的魅力を感じることが難しい。それは、チャラヤンのデザインが実験的だからという理由でもない。
マルタン・マルジェラも実験的な作風であったが、彼にはロング&リーンのシルエットと共にシックな装いで退廃的なムードを漂わすスタイルとしての魅力があり、マルタンのロングスカートを穿く女性には古典的な美しさが立ち上がっていた。実験的でありながら、スタイルを確立している。それがマルタン・マルジェラだったが、チャラヤンは実験的なデザインをスタイルにまで昇華させることができていない印象を受ける。
二つ目の理由はトレンドとの距離感である。トレンドが消費者に与える影響は想像以上に大きい。目に見えない大きな引力が働いているのではないかと思うほどに、デザインの価値を左右する。人気デザイナーたちのデザインは、そのデザインがトレンド(文脈的意味での)に対してフォロー型であれカウンター型であれ、いずれもトレンドに乗った上でデザインされている。
だが、チャラヤンの場合、トレンドとの距離感がない。ファッションデザインのトレンドとは隔絶して、自身の興味をとことん追求し、クリエイティブに具体化している。それゆえ、ファッション的魅力が感じづらい。
以上二つの理由が、フセイン・チャラヤンのデザインにファッション的魅力「着たい・欲しい」を感じづらくさせ、彼のブランドビジネスがその才能ほどに拡大していない印象を受ける理由だと私は考えた。
しかし、近年のチャラヤンはデザインを変化させてきている。かつての実験性は抑制され、スタイルの確立を試みているようなコレクションを発表している。その印象を感じたのは2017AWウィメンズコレクションであった。ベーシックをベースにフォルムに焦点を当て、女性の身体が持つ優美さからは離れた硬質なフォルムを作り、どことなくメンズらしい香りが漂い、昨今のジェンダーレスな流れに乗った表現がなされ、チャラヤンらしい詩的表現が繊細に美しく盛られている。
同シーズンのメンズコレクションも、ロマンティックでロジカルというチャラヤンの特徴がファッションスタイルへ昇華されていた。エッグシルエットともいうべき全体を楕円形で包んだシルエットという、保守的なメンズウェアでは挑戦的なシルエットを作り上げ、そのシルエットをベースにベーシックアイテムをデザインし、シルエットの枠内で衣服の構成(ディテールのデザインと配置)が行なわれていた。
クラシックな装いの中に漂うロジカルでロマンティックな匂い。かなり抽象的な表現にはなるが、以前のチャラヤンには感じられなかったオリジナルスタイルの輪郭が生まれ始めていた。
先月に発表された2020SSメンズコレクションにはトレンドとの距離感も感じられた。シルエットにはリラックス感があり、パジャマのようなカジュアルな装いにスーツがミックスされ、装飾性は最小限にとどめられてエレガンスが滲む。
まだオリジナルスタイルを模索中という印象を受けるが、私はこの変化をポジティブに感じる。何度も言うが、フセイン・チャラヤンの才能は素晴らしい。しかし、商業的成功が伴わないとファッションデザイナーの存在は埋もれてしまう。チャラヤンにはそうあって欲しくない。
彼ならスタイルと実験を両立させたデザインができると信じ、これからもコレクションを見続けていきたい。
〈了〉