AFFECTUS No.168
業界で話題あるいは市場で人気になっているブランドがあると聞き、そのデザインを見たとき判断に迷うことがないだろうか。
「このデザインがなぜ評価されているのか?」
そんな疑問を感じることもきっとあるはず。とりわけ、デザインの先端性が強いモードファッションにおいては。
いったい、なぜこのブランドが人気なのか。その疑問が生まれ、迷い込んでしまった。人間の数だけ正解があると言えるファッショにおいてそのような経験は珍しいことではない。そんなとき、一人の消費者としてファッションを楽しむなら「好きではない」とジャッジするのも正解だろう。
だが、僕は感覚が優先されてきたファッションにも、デザインを作り上げる理論があるのではないかと強い興味を抱き、書き続けてきた。「好きではない」の一言で終わらせるわけにはいかない。
迷いが生じたとき、好き嫌いを超えてデザインの価値を判断する方法はないのだろうか。その方法論について今回は書いてみたいと思う。実際にその方法を用いて、今回はデザイン価値について言語化を試みている。
前回に引き続き、今回も実験精神あふれるブランドが次々登場するロンドンメンズからのピックアップ。ブランドの名は「アートスクール(ART SCHOOL)」。シンプルでありふれたブランドネームが逆に印象深い。
デザイナーはイーデン・ロウェス(Eden Loweth)とトム・バラット(Tom Barratt)の男性デュオ。二人は大学時代のパーティで出会い、互いに惹かれあい、共にアートスクールをスタートさせる(イーデンとトムはビジネスだけでなくプライベートでもパートナー)。
トムが10代のころからファッションに夢中になり、レイベンズボーン大学でメンズウェアを学んでいたのに比べ、イーデンはセントラル・セント・マーティンズ入学後にファッションへの興味を抱くという、遅咲きのスタートである。そんなイーデンゆえ、セント・マーティンズでは美術批評を学んでいた。
アートスクールのデザインはジェンダーレスが核となっている。ショーには男女のモデルが登場し、坊主頭で髭を生やした男性モデルが黒いストッキングと膝丈のタイトスカートを穿くスタイルや、男性モデルがグレー&ブラックのレオパード柄のベアトップミニドレスの着用姿も披露され、ルックを見ているだけではモデルの性別が不明なデザインが多数現れる。
「性別を決めているのは人間なのか、服なのか」
そのような不可思議な疑問が沸き上がるほどに、アートスクールはジェンダーが錯綜している。スカートを穿いているから女性なのだろうか、ミニドレスを着ているから女性なのだろうか。スカートを穿いている人間を見たら、着用者は女性だと思うのが一般的な感覚だろう。そのように、服には性別を決定づける力が備わっている。その常識にアートスクールは次の方法で疑問を投げかける。
アートスクールのスタイルには2種類ある。一つ目は先述したように明らかに男性モデルが女性の服を着用しているタイプ。もう一つは、服は明らかに女性の服(スカート・ドレスなど)だが、着用しているモデルが男性なのか女性なのか、モデルの顔や体型だけでは性別の判断に迷うタイプ。
その2種類のスタイルが入れ替わり立ち替わり登場することで「性別が異なることの意味とは何なのか」という根本的問いを投げかけられるようで、批評的感覚に陥る。
イーデンとトムはウィメンズウェアを軸にアートスクールをデザインしている。その服を着るのは男性でも女性でもかまわない。気に入ってくれたなら、着るのは誰でもいい。そんなメッセージさえ感じられてくる。
以上が、コレクションを観察して僕が捉えたアートスクールの特徴である。しかし、これはあくまで特徴であって価値ではない。この特徴に価値があったからこそ、アートスクールは次から次に新星が登場するロンドンメンズにおいて高い評価を獲得できたはず。
しかし、僕にはアートスクールのコレクションを見ているだけでは特徴はわかっても、ブランドの価値はわからず、長い時間頭を悩ます。
「なぜアートスクールは評価されているのだろう」
何度コレクションを見ても、その疑問が幾度も起こり、答えが見えてこない。価値とはどのようにして生まれるものなのだろうか。
しかし、そこで私はある方法が頭の中に浮かび、価値を知るための方法を実践することにする。価値を知るために実践したこと。その一つ目はデザインの文脈を捉えることだった。
アートスクールはジェンダーレスがデザインの特徴になっている。同じようにロンドンでジェンダーレスが特徴のブランドはどこだろうと考えることで、ジェンダーレスデザインの縦軸=文脈を形にする。
結果、僕は二つのブランドを思い出した。
一つ目のブランドは、今ではメンズコレクションはパリに発表の場を移したが(ウィメンズはロンドンで発表)、ロンドンを代表する「JW アンダーソン(JW ANDERSON)だ。アンダーソンは現代のジェンダーレスの流れを引き起こした張本人であり、現代における重要デザイナーの一人でもある。彼のデザインは、筋肉質の男性モデルにフリルスカートやミニスカートなどウィメンズウェアをそのまま着用させるストレートな手法だったゆえ、男性モデルの姿からは違和感が際立つ。だが、その際立つ違和感がパワーとなって見ている者の記憶に強く刻まれ、ジェンダーレスの概念が輪郭を持って強く訴えかけてきた。
二つ目のブランドは「チャールズ・ジェフリー・ラバーボーイ(Charles Jeffrey Loverboy)」である。ラバーボーイを僕は「新時代のヴィヴィアン・ウエストウッド」と呼ぶほどに、西洋史の服装史から着想を得たような装飾性とシルエットを帯びている。ラバーボーイのスタイルはウエストウッドよりもカジュアルで、それがストリートが席巻する現代の時代感にウエストウッドよりも接近しており、モダンである。
デザインの文脈を捉えた後に行ったことは、比較である。価値は比較することで見えてくる。この場合、デザイン系統が同系統のブランドを比較することで相違点がわかりやすくなり、特徴が価値へと感じられてくる。
ロンドンからアンダーソンによって沸き起こった現在のジェンダーレス。そこから派生したブランドとしてアートスクールに近い特徴を感じたのは、ラバーボーイだった。
ラバーボーイはカジュアルなスタイルではあるが、テーラードジャケットやドレスも多く登場し、ドレッシー要素も強い。同様にアートスクールもドレッシー要素が強く、むしろドレステイストがコレクションの大半を占めていると言ってもいいほどだ。
ドレッシーという共通点のある両ブランドだが、コレクションを比較すると違いが見えてくる。ラバーボーイはイギリス伝統のチェックやボーダー、赤・青・黄・緑と柄使いと色使いにバリエーションがあり(その点もウエストウッドと共通している)、カラーパレットに特徴があるドレステイストである。一方、アートスクールはラバーボーイと違って色数が黒・グレーといったダークカラーがメインとなり、時折登場する赤や紫もくすんだ色味である。
ラバーボーイとアートスクールは両ブランドのスタイルからは「パーティ」という単語が連想されてくるが、ラバーボーイが日中から夕方、夜にかけてのイメージとすれば、アートスクールは深夜である。
アートスクールの闇の濃さをさらに強めているのがホラーテイストだ。アートスクールのコレクションを見ていると、僕はホラー映画の怪しげで暗いイメージが感じられてきた。たとえば、2020SSコレクションではモデルたちは白目になっており(コンタクトレンズを使用していると思われる)、白目でランウェイをダークカラーでセクシーな服を着用して蛇行して歩く姿には、ゾンビの歩行を思わせるホラーテイストがあった。
ホラーテイストを重ねたダーク&ドレッシーなミッドナイトスタイルのジェンダーレス。少々長くなるが、アートスクールのデザインを形容するならそうなるだろう。そしてその特徴がアートスクールのデザインをロンドンを代表するジェンダーレスデザインのアンダーソンとラバーボーイとは異なるポジションの獲得を可能にした。
文脈と比較のプロセスを経て、私はアートスクールの特徴に価値があることが理解できた。そしてジェンダーレスデザインをロンドンから世界へと視野を広げたとき、NYの「トム・ブラウン(Thom Browne)」と「エコーズ・ラッタ(Eckhaus Latta )」が私の頭に浮かぶ。アートスクールはこの両ブランドと比較しても異なるポジションを獲得している。
ご存知の方も多いだろうが、トム・ブラウンはアメリカントラッドがデザインベースになっている。エコーズ・ラッタは形容するのが少々難しくなるが、実験精神をベーシックウェアを通して具現化するスタイルと呼べる。
トム・ブラウンとエコーズ・ラッタはそれぞれ確立したスタイルを通して男女の性差を曖昧にしたコレクションを発表しているが、どちらもアートスクールの持つドレス&ホラーという特徴は持ち合わせていない。
ブランドの持つデザイン的特徴が、ジェンダーレスデザインの文脈の中で別軸の価値を刻んでいたからこそ、そのことが直感的に感じ取られてアートスクールは高い評価を得るに至ったと僕は推測する。
デザインの価値判断に迷ったとき、文脈と比較を用いて価値があるのか否かを浮かび上がらせる。好き嫌いという感覚だけのジャッジに陥いると、自分の好きとは異なるがファッション史的に価値があるデザインに気づけないリスクが高まる。感覚に委ねないファッションデザインの判断のために、デザインの文脈を捉えて比較を行う。この方法を実践することで、僕とは異なるアートスクール論を発想する方もいるだろう。このテキストが、ファッションを言葉でクリエイティブに楽しむきっかけになれたら喜びである。
〈了〉