服の記憶を編集するミスターイット

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AFFECTUS No.167

服について語ろうと思う。デザイナーのキャリアを説明するファッションブランドに必須の紹介はやめよう。デザイナーの名前を書くのも控えたい。彼は(男性であることだけお伝えする)自分の名前をブランド名にすることが多いモードファッションの慣習には倣わず、けれど聞きなれない言葉を選ぶでもなく、ありふれた単語を結びつけて「ミスターイット(mister it.)」という名前をブランド名とした。

匿名性を持つブランドだからこそ、僕は服についてだけ語りたくなった。それがミスターイットの魅力を伝える最も有効な手段に思えたから。けれど、今日ここで僕が語る服は1着のシャツについてのみ。ブランドの定番アイテムとして生まれたそのシャツにこそ、ミスターイットのモード性が凝縮されている。

9月初旬、展示会場を訪れたその日、僕は彼から2020SSコレクションについて直接話を聞く幸運を得る。最初に紹介されたアイテムこそが、今日僕が語るシャツだった。

薄手のコットンで仕立てられたベーシックに見える1枚の黒いシャツ。しかし、ベーシックなシャツなのにベーシックとは異なるモードなニュアンスが匂ってくる。その秘密を、彼は次々に丁寧に解き明かしてくれた。

「触ってみてください」

そう促され、僕は両手でシャツの左右両身頃を掴む。

最初は何も変わった点はないように思えた。しかし、生地を繰り返し何度も触れていくうちに、指先は左右の身頃で微妙に生地の感触と厚みが異なることに気づく。

この微妙な違い。これはいったい何だろう。

その理由を彼は教えてくれた。同じ糸で異なる織り方の生地を、左右の身頃に使用していたのだ。左身頃には平織りの生地が、右身頃には綾織りの生地が使用され、左右の身頃における生地の差異がささやなかな相違を生み、1枚のシャツにはシャツ2枚分の意味が込められていた。

彼はシャツを少し広げ、裏側を見せてくれる。シャツの後ろ身頃上部にヨークと呼ばれる切り替えがある。そのヨークの裏側には裏地に多用されるキュプラが使われていた。なめらかな質感のキュプラは着用時の着やすさを向上させるため、裏地を要するアウターやボトムに使われることが多く、通常裏地を必要としないシャツにキュプラが使われることはまずない。しかし、ミスターイットはあえてシャツにキュプラを使用する。シャツを羽織る瞬間、背中に触れるヨークの滑りをよりなめらかに、着用者がより気持ちよく着られることを願って。

着用者をささやかに驚かすミスターイットの仕掛けはまだ続く。

手首は人間の身体の中でも運動量の豊富な箇所で、一日の間で何度も手首の肌とシャツの袖口の生地はこすれ合う。その感触を彼はデザインする。シャツの袖口にはニットが使われ、布帛よりも柔らかい素材感のニットが手首とシャツの触れ合う感触を優しくする。

このシャツに、ささやかな驚きを覚えるのは着用者だけではない。ミスターイットはシャツの着用者と出会った人にも、ささやなかな驚きをユーモアを添えながら届ける。その驚きを彼は、もう一つの秘密として袖口に仕掛ける。

人と出会い、右手を差し出して握手をすることがあると思う。その瞬間、視線は手首に向かう。視線の先に見えるのはシャツの右袖口。対面した人間はその瞬間気づく。袖口にとても小さな白いハートが描かれていることに。黒い生地の上に小さく浮かび上がる白いハート。シャツの袖口にあるとは思わなかったハート。僕は不意に笑う。それは気持ちのいい笑いだった。

このシャツを始まりに、すべてのアイテムを見て数日経過した今、僕はこう思う。ミスターイットがデザインしているのは服ではない。ミスターイットは服にまつわる記憶をデザインしている。

服を手に取り、そのとき指先が触れる生地の感触。袖に腕を通し、身体を服にもぐりこませるまでの間に感じられる体験。服を着ている人を見ている時の自分の視線。シャツはこんなふうに感じられるもの。カフスはこんなふうに見えるもの。服にまつわる記憶が脳内に刻まれた僕らは、過去に体験した服の記憶と照合しながら目の前の服を捉えている。

その照合に彼はズレを引き起こす。心地よい驚きと笑いを伴うズレを。

僕の記憶の中で、シャツの袖口にハートはないはずだった。でもミスターイットは僕のその記憶の導線を編集し、シャツに関わる僕の記憶を書き換える。あるはずのないハートがシャツの袖口に見えて、思わず笑いがこぼれた瞬間起きたのは価値観の転換。まさにそれはモードだった。けれど刺激的で鮮烈なモードとは異なる、もっと日常的で、もっと安心できて、もっと僕らの生活に寄り添うモード。

僕がここで語ったシャツの秘密がすべてではない。まだ語っていない秘密が、このシャツにはあとほんの少しある。ミスターイットのシャツを目の前にした時、あなたの服にまつわるどんな記憶がどのように編集されるだろう。

さあ手を伸ばそう。過去の記憶と編集された記憶が紡ぐ新しい物語に向かって。

〈了〉

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