早熟の才能オリヴィエ・ティスケンス -1-

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AFFECTUS No.208

1997年、一人のファッションデザイナーがわずか20歳という若さで、自身の名を冠したブランドを設立する。デザイナーの名はオリヴィエ・ティスケンス(Olivier Theyskens)。新しさを求める業界である反面、保守的な側面もかなり強いファッション界では、ティスケンスがブランド設立までに到る道のりは異端であった。

なぜティスケンスは若くして才能を認められたのか。いったいティスケンスのデザインにはどのような魅力があったのだろうか。通常のAFFECTUSなら1回で終わるが、ティスケンスをテーマとする今回は想像以上のボリュームになったため、今週と来週の二回に分けてお送りする。前半である今回は、主に1990年代後半のファッションデザインに言及していこうと思う。ティスケンスがデビューした同時代のファッションデザインをまず明らかにし、彼のデザインと当時のデザインを比較参照することで、ティスケンスの価値が見えてくると考えたからである。

1977年、ベルギーの首都ブリュッセルでティスケンスは生まれる。17歳で高校を中退後、地元のラ・カンブル国立芸術学校に入学するが、学校の教育と合わずに再び中退することになる。ラ・カンブルは、ヴィクター&ロルフ(Viktor&Rolf)を見出したことでも有名なファッションコンペ「イエール国際モードフェスティバル」でグランプリ獲得者を何人も輩出するなど、ファッション界ではベルギーの名門校として知られている。現「サンローラン(Saint Laurent)」クリエイティブ・ディレクターのアンソニー・ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)もラ・カンブルの卒業生である。

ティスケンスはラ・カンブル出身ではあるが中退しており、ラグジュアリーブランドでディレクターを務める現代のエリートデザイナーたちと比べると、学生時から脚光を浴びていたわけではなく、有名メゾンでキャリアを積んでデビューという華やかさとも無縁だった。冒頭で述べたように、ティスケンスはラ・カンブル中退後の1997年にシグネチャーブランドを始める。年齢的にも経験的にも一見未熟に思えるが、ブランド設立の翌年1998年、早くも1998AWシーズンにパリデビューを飾り、同年はマドンナ(Madonna)がアカデミー賞授賞式でティスケンスの服を着用したことで、ファッション界における彼への注目度は飛躍的に高まった。

当時のファッション界といえば、ミニマリズムの旗手「ヘルムート・ラング(Helmut Lang)」の時代である。ホワイト、ブラック、ベージュなどベーシックな色展開でスポーツテイストを絡めたクールで装飾性を排除したファッションは、未来感を漂わせ颯爽とした魅力にあふれて時代を席巻する。同時に「ジル・サンダー(Jil Sander)」もミニマリズムを代表するブランドとして、モダンという表現が似合うラングとは異なるタイプの、シックなエレガンスを備えたミニマリズムで人気を獲得していた。また同時期は「マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)」への注目度も相変わらず高く、彼のクリエイションがキレを見せていた時期でもある。

もう一つ、この時期に言及しなくてはいけないデザイナーたちがいる。それはアントワープ王立芸術アカデミー出身のデザイナーたちである。「アントワープ・シックス」やマルジェラの活躍により、出身学校であるアカデミーへの注目度は飛躍的に高まり、メディアからの注目はもちろん、入学を希望する者が殺到し、1990年代後半はアントワープ・シックスやマルジェラに憧れてアカデミーに入学した世代のデザイナーたちが次々にデビューする時期でもあった。

1997年秋、展示会形式で「ヴェロニク・ブランキーノ(Veronique Branquinho)」が、妖精のような女性像で儚い美しさと共にデビューし、1998年3月にはヨーゼフ・ボイス(Joseph Beuys)をテーマにしたコレクションで「A.F.ヴァンデヴォースト(A.F.VANDEVORST)」が鮮烈なデビューをパリで飾る。アカデミーの卒業生ではないがラフ・シモンズ(Raf Simons)は、当時のアカデミーのファッション学科長であったリンダ・ロッパ(Linda Loppa)に見出され、1995年のデビュー後しばらくはショーを開催していなかったが、1997年1月に衝撃のデビューショーを披露し、男性の繊細さを新たなる魅力とするメンズウェアが世界中の若者たちを熱狂させる。当時、アカデミーを卒業したデザイナーたちは、デビューすればすぐさまメディアやセレクトショップからの注目が集まるほどの大人気であった。

余談になるが、アカデミーを特集した『装苑』2001年10月号は数多くあるアカデミー特集の中でも抜群のクオリティを誇る特集であり、興味のある方はぜひ読んでもらいたい。僕にとっては今後も保管していく大切な一誌だ。

では、当時のデザインにはどのような特徴があったのだろうか。一言で言えば「最小限のデザイン」である。ラングやジル・サンダーがそうであるように、華美と華飾が特徴であった1980年代への反動から1990年代はデコラティブな要素は極力控えられ、シンプルな服が時代のトレンドとして主流になっていた。

マルジェラのデザインも最小限のデザインと言えよう。マルジェラは高価な素材や、難度の高い技術といったこれまでファッションの価値を作り出してきた手法には背を向け、古着のような先端性を競い合うモードでは無価値とされていたモノをデザインソースとし、かつデザインソースである「モノ」に最小限の手数だけを加えて生々しくありのままに提示した。1997SSシーズンに発表されたコレクションは、フランスのマネキンメーカー「ストックマン(STOCKMAN)」のボディをほぼそのままジャケット的アイテムに転用するなど、「これがファッションになるのか?これでデザインと言えるのか?」とファッションの概念を根本から揺さぶった。

マルジェラのデザインは、ラングやジル・サンダーと外観の雰囲気は異なるが、手法のシンプルさという観点で見れば共通している。このように1990年代後半というのは、装飾性とは距離を置いたファッションが時代の象徴であった。

また、この時アントワープのデザイナーたちが果たした役割も、ファッション史上とても重要なものだった。1947年2月、クリスチャン・ディオール(Christian Dior)の発表した一つのスタイルが、戦後ファッションの始まりを告げる。ニュールックの登場である。ニュールックはファッションデザインとはどのようなものかを物語る象徴的衣服であって、ファッションデザインとは造形の探究を意味するものだった。ディオールのニュールックはまさにその代表であり、ニュールック登場以降ファッションがデザインとして評価される際には、造形の先端性や時代との呼応が重要なポイントになっている。また、イヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent)のスモーキングのように、社会に新しい生活習慣を促す提案もファッションデザインと言える。

そういったファッションデザインの歴史に転換をもたらしたのが、アカデミー出身のデザイナーたち=アントワープ勢である。そのデザインは造形的には先人のような先端性や迫力はほぼ見らず、造形そのものはベーシックであることが多い。では、アントワープ勢はなぜ高い評価と人気を獲得するまでになったのか。もちろんファッションに新しいデザインを作り出したからになるのだが、アントワープ勢は造形とは別の観点からのアプローチで新しさを作り出すことに成功した。それはイメージである。

アントワープ勢登場以前から、イメージはファッションにとって重要な素材であり、どんなイメージを消費者に訴えるかはブランドの評価と業績を左右してきた。元来ファッションに備わっていたイメージの重要さをアントワープ勢は加速させた。自身のアイデンティティを探究し、それを衣服へと具現化することで他の誰とも異なる魅力を持つイメージを構築する。そのようにアントワープ勢が作り出したイメージの独特さこそが、造形的にはベーシックであっても消費者を魅了してやまないものになっていたのだ。イメージで服の価値を伝える時代が本格的に始まる。

アイデンティティとは何か。僕の解釈を述べれば、好きでも嫌いでもない、この体験があったからこそ今の自分という人間が作られたという類の体験、それがアイデンティティである。人間が成長するまでに歩んだ人生のプロセスで得た体験は、世界でその人間だけのものだ。アイデンティティを発見する修練と、発見したアイデンティティを衣服へと具現化するスキルを持ち合わせているデザイナーがアントワープ勢である。アカデミーは、服そのもので魅力を作るのではなく、服が発するイメージを魅力的にするというファッションデザインの新しい手法を作り上げた。ここにアカデミーの偉大さがある。

そしてイメージがファッションデザインになるという手法は、時代背景がさらに加速させた。1990年代は産業の転換点だった。製造業や重工業からIT産業への転換が起こり、インターネットが一般家庭でも使えるようになってイメージの持つ重要さは加速していく。

そのような時代にあってティスケンスは、若くして業界から認められ、高い評価を獲得するまでに至っている。それではパリデビューとなった彼の1998AWコレクションを見ていこう。当時、ティスケンスの年齢はわずか21歳であった。ファッション業界でプロフェッショナルとして未熟な若者が、パリでいったいどのようなデザインを発表したのか。そんな若者がなぜパリで評価を勝ち得ることができたのだろうか。

〈続〉

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