私小説のような世界のクードス

スポンサーリンク

AFFECTUS No.238

小説には私小説という分野がある。小説家自らが体験した現実をもとに、脚色や誇張がほぼ施されることなく書かれる物語のことであり、代表作に森鴎外の『ヰタ・セクスアリス』や夏目漱石の『道草』などがあげられ、近年では私小説作家として2011年に『苦役列車』で第144回芥川賞を受賞した西村賢太が知られている。

僕は小説を読むことは好きだが、私小説を読んだことがほぼない。漱石の作品はほとんど読んでいるので『道草』も読んでいるのだが、正直に言えば作品の印象をまったくと言っていいほど覚えていない。おそらく僕と私小説は相性が悪いのだろう。

そんな僕が私小説にわずかでも言及するというのは間違っているかもしれないが、それでも今回書くブランドのコレクションを見ていたら「私小説」という単語が浮かんできたため、その感覚のまま自由に書いていくことを許してもらいたい。

そのブランドとは工藤司の「クードス(Kudos)」だ。僕は“mindset”と名付けられたコレクションのビジュアルをiMacのディスプレイ越しに眺めていた。クードスが発表していたビジュアルは、ヨーロッパのビッグブランドが見せる、ラグジュアリーでファッショナブルなビジュアルとは正反対に位置している。昭和の香り漂う昔ながらの日本の木造家屋を舞台に、畳敷きの和室や台所(キッチンと称するのは似合わない)に黒髪の男の子たちがクードスの黒い服を着用した姿には、僕が知るモードファッションとは異なる文脈の価値が潜んでいるように思えた。

デザイナーが自身の唯一無二の世界を最大限に表現したもの。それが僕の知るファッションブランドだった。言い方を変えれば、デザイナーが探求の果てに発見した自身の世界を、誇張し、脚色したものがモードファッションのデザインだと言えよう。だが、クードスを見ていると独自の世界観を感じながらも、その世界観を誇張も脚色もすることなく、ありのままに写し撮っているように感じられてきたのだ。

ファッションに限らず創作という行為は、創作の源泉となる素材を見つけたら、その素材の特徴を磨き上げて強く大きく表現することが一般的だろう。だが、クードスのビジュアルから受ける印象は異なる。もちろん、発表されている服はベーシックな服とは異なりディテールや素材の組み合わせは、確かにデザイン性の強いものだ。しかし、クードスの服はシルエットがベーシックであるためにデザイン性の強さが緩和され、さらには昭和の香り、郷愁を覚えるビジュアルがデザイン性の強さをさらに薄く弱めている。

とても不思議な感覚だ。強く激しく表現すべきことを避けている。ありのままにそのままに、そこに伝えたいことがある。そんなメッセージを感じるほどに。しかし、そのメッセージを広く多くの人たちに届けようとしているようには、感じられない。

「あなたのために」

届けたい人を、知られたい人を絞るような限定的で閉じられた世界を僕は感じた。

ファッションデザインが常識としてきた手法とは対極に位置する手法に、僕は強烈なインパクトを覚えることはないのに新鮮な感覚を覚える。それが特別で特殊な物語でなくとも、一人の人間が見てきた一つの体験は世界の誰かに響く物語となり得る。リアリティを伴ってその物語を伝えるには、脚色や誇張は邪魔にしかならない。

世界の王座に君臨することはないかもしれない。市場を席巻するビッグヒットにはならないかもしれない。だが、強烈さも過激さも必要としない人たちが世界にはいる。その人たちのための服が必要だ。

まるで私小説を綴るように、工藤司はクードスをあなたのために仕立てる。

〈了〉

スポンサーリンク