AFFECTUS No.240
ファッションとは個人の趣味趣向が反映されるもので、どうしたって好き嫌いが強く現れる。例えば、僕の好きな服は誰かの嫌いな服であるだろうし、その逆もきっとあるだろう。僕の嫌いな服は、世界の誰かにとっては愛する服に違いない。自分の感覚でさえ、時代の移り変わりと共に変わっていく。去年好きだった服を、今年は手を伸ばす気分にはなれないこともあるのだから。ファッションには確かな正解などなく、スタイルの数だけ正解があり、時代の移り変わりと共に正解は変わっていく。
ファッションのカッコよさをデザインする。一般的にはそれがデザイナーの仕事だろう。だが、世界にはユーモアをデザインするファッションデザイナーたちがいる。ユーモアをどう料理するか。そこに力量を発揮するデザイナーたちが世界にはいる。
これまで幾多の新進デザイナーを発掘してきたイエール国際フェスティバル(International Festival of Fashion, Photography and Fashion Accessories in Hyères)で2018年にグランプリを獲得し、同年8月には「ニナ・リッチ(Nina Ricci)」のクリエイティブ・ディレクターにも就任したデザイナーデュオが立ち上げた「ボッター(Botter)」は、硬直的なメンズウェアの領域でユーモアを武器に僕らが抱くファッションへの感覚に揺さぶりをかける。
ビジネスにおいてもプライベートにおいてもパートナーであるルシェミー・ボッター(Rushemy Botter)とリジー・ヘレブラー(Lisi Herrebrugh)は、ユーモアを決してアヴァンギャルドなデザインには振らず、ファッションをあくまで現代生活に溶け込むリアルな服としてユーモアを添えて僕たちに提案する。
ボッターのベースとなっている服はストリートとクラシック。この一見すると対極に位置すると思われる両スタイルを、ボッターは一つのスタイルに集約させる。コレクションで発表される服そのものは、ジョン・ガリアーノ(John Galliano)やウォルター・ヴァン・ベイレンドンク(Walter Van Beirendonck)のように歴史の衣装やぬいぐるみから引用するといったアグレッシブなデザインは見られず、代わりに見られるのはストリートウェアを思い浮かべるルーズなシルエットのシャツやボトム、グラフィックを用いたトップスであり、同時にジャケット&パンツのクラシカルなアイテムも頻繁に登場させてコレクションの中核を成し、ボッターはストリートとクラシックの両スタイルをカリビアンテイストにまとめ上げてデザインする。
しかも、それらの服はシンプルでスマートにデザインされているわけではない。ボッターはユーモアを持ち込み、ベーシックウェアの領域を越えた面白さを僕たちに披露する。特徴が最も現れているのは服の構造だ。
まるで小さな子供が母親に服を着せられている途中で走り出してしまった姿のような、シャツやジャケットが形を崩したフォルムでコレクションに度々現れる。首だけを通し、袖がぶら下がるシャツにコートを重ね着する。そんなふうに子供がおもちゃを遊ぶように、ルシェミーとリジーは服を遊ぶ。ボッターのスタイルに、強烈に鮮烈に心揺さぶられるカッコよさがあるわけではない。いや、そもそも、そんなカッコよさとボッターは無縁だ。
僕はボッターのコレクションを見ていると、こんな若者たちの姿が浮かんでくる。
彼らは路上で仲間たちのスタイルを見て楽しげに笑い、どんな服の着こなしであっても嘲笑することはない。ファッションは自由を謳歌するものなんだ。彼らの全身がそう語っている。カッコいいと唸らせるよりも、誰が最も笑いを取れるか。だけど、そのスタイルは道化的であったり、コスチュームであってはいけない。いつも自分たちが大切に着用する愛しい服を使って表現しなければならないのだ。
「こんな着こなしがあってもいいだろ?」
披露されたスタイルに思わず笑いがこぼれる。よくそんな着こなしを思いついた、と。そう、ボッターから想起させられる若者たちが見せる笑いは、作り上げたスタイルへの尊敬からこぼれる笑いなのだ。
ルシェミーとリジーは、ファッションにおけるカッコよさを否定する。ユーモアの中に潜んでいたエレガンスを発見し、ファッションとは笑顔になれるスタイルにも美しさがあるのだと訴える。面白くも美しくある。新しい時代の新しい価値観を泳いでみよう。行き先はきっとボッターが指し示してくれる。
〈了〉