服の実験家マルタン・マルジェラ

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AFFECTUS No.277

9月21日の夕方、僕は有楽町の映画館「ヒューマントラストシネマ」へ向かう。公開されたばかりの新作ドキュメンタリー『マルジェラが語る“マルタン・マルジェラ”』を観るためである。マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)自らが、自身のコレクションについて語っていくというこのドキュメンタリー、モードファンなら関心を抱かない方が無理だろう。ファッション界を去ってしまったマルタンが今何を語るのか。僕はそれを知りたかった。

JR有楽町駅に到着する。会社勤めをしていたころ、数え切れないほど利用した駅だが、久しぶりに訪れた有楽町駅は改札周辺がリニューアルされ、僕は出口がどこか少々迷う。しかし、迷った時間はほんのわずかで、改札を抜けると見慣れた風景が飛び込む。目的の映画館が入居しているビルは、中央口改札のすぐ目の前、歩いて1分にも満たない場所にある。

エスカレーターで4階まで上ると、映画館の入口付近に15人ほどの人々がいた。なんとなく雰囲気でわかってしまう。この人たちは、マルタンのドキュメンタリーを観に来た人たちのなのだろうと。10分ほど待つと、開場時間になり、はやる気持ちを抑えながら館内へ入っていく。事前にウェブサイトで確認していたが、スクリーン(上映室)がやはり小さい。腰を下ろすと、座席の配置角度が甘いことに気づく。「やや観づらいな……」。それがすぐに思ったことだった。

いくつかの映画の予告の後、いよいよ上映が始まる。

ここでドキュメンタリーの詳細について語ることは、これから観ようと思っている方たちのためになるだけ控えよう。語りたいのは、このドキュメンタリーを観た僕の感想である。

マルタンは、服を愛する人、より厳密に言えば服作りを愛する人なのだ。服を作る行為を愛し、楽しんできた。それが僕の感じたマルタン・マルジェラという人物である。そもそも、マルタン在籍時のコレクションが彼の趣向を物語っている。1997SSシーズンに発表された、パリのトルソーメーカー「ストックマン(Stockman)」のトルソーをベースに形作ったジャケットは、まさにその代表だろう。いったい誰が、トルソーをコレクションのキーピースにするだろうか。全体未聞の発想だ。

マルタンは服作りの周辺に目を向け、コレクションの芽を探す。これは「コム デ ギャルソン(Comme des Garçons)」と類似する傾向でもある。両ブランドとも、デザイナーが旅行で訪れた国や街、あるいは映画といったものからインスピレーションを得てコレクションを制作するタイプではない。服作りのプロセスに見られる風景から発想のヒントを探り、新たな服を作り出している。服の縫い代すらも、重要なデザイン要素になる。

両ブランドの違いは、完成された造形にある。コム デ ギャルソンが異形なフォルムを作るのに比べ、マルタンはデザインの発想となった服の原型が感じられるほどに、現実的なフォルムに着地させている。2000SSシーズンに発表された超巨大ビッグシルエットの服は、トレンチコートがインスピレーション源であることが一目でわかる。このように、デザインの背景を匂わす造形を作るのが、マルタンの特徴である。

またマルタンは、チープな素材を使うことが多い。「最高級の原料で作ったオリジナル素材が武器」。そういう類のデザイナーではない。マルタンにとって重要なのはアイディアだった。アイディアの先端性こそが、マルタンを至高の存在へ到達させた。

今、コスパという言葉が注目される世の中になっている。その潮流に照らすならば、安価な生地を使って高価格の服を作るマルタンは、コスパが悪いとなるだろう。だが、マルタンの服は創造性にお金を払う類のデザインだ。見る者を高揚感で包み込み、時代を前進させる創造性。それを体験することに、高い価値を感じてお金を払う。それがマルタンの服を買うということだ。

マルタンが見せるアイディア自体は、斬新で大胆といったものではない。「そんなアイディアがあったのか!」と意外性で驚くことが少ない。2000SSシーズンのビッグシルエットのトレンチコートも言ってしまえば、規格外のサイズに拡大しただけの服である。過去に発表したコレクションをグレーに染めただけの服を新作として発表したこともあるが、これもアイディアだけ聞けば、それほど驚くことではない。以前の服を染めた。ただそれだけである。

しかし、マルタンのアイディアは彼のコレクションを見るまで、気づくことができない。発表された服を見て、「ああ、そんなアイディアある」と初めて自覚できる。誰でも思いつけそうだが、誰も思い浮かぶことができていない深層心理に潜むアイディアを、マルタンはいくつも発見してきた。

彼は「服作り」を愛している。作り込まれたディテール、デザインのベースになるアイテムの選択、それらすべてに服への愛情が伺える。古着から新しい服を生み出そうとする試みからしてそうだ。既存の服をどう解釈したら新しく見えるのか、その研究をひたすらに徹底的にやってきた人がマルタン・マルジェラというデザイナーである。僕はマルタンのコレクションに、冷めた視線を感じることがある。デザイナーが自身の世界を表現するのがモードファッションのデザインだが、マルタンはあくまで服という「モノ」に向き合い、物質として接している。それがマルタンが見せてきた冷めた視線の源泉ではないだろうか。

服の実験家は、偉大な足跡を残して去った。ファッション史をマルタン・マルジェラ以前と以降と述べてもいいほどに。

〈了〉

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