ジョン・ガリアーノとジャン=フランソワ・ミレー

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AFFECTUS No.284

今、ジョン・ガリアーノが珠玉のコレクションを披露している。「メゾン・マルジェラ(Maison Margiela)」は、2021AWオートクチュールコレクションから新しい路線へ舵を切った。いや、正確に言うならば、ガリアーノが原点へ回帰したと言うべきか。しかもただ回帰したのではなく、メゾン・マルジェラの伝統に図りながら回帰したと述べるのが正しい。

このオートクチュールコレクションは、かなり異質な雰囲気が立ち込めている。海賊、漁村、農園、宗教、魔術、絵画と、ヨーロッパの歴史を一つに集約した大作映画のような壮大さが迫ってくる。もしくは、伝統ある巨大な劇場の座席から、歴史劇を観ているかのようでもある。

登場するモデルたちの服に、ラグジュアリーな香りは一切ない。むしろ漂うのは正反対の雰囲気だ。質素な漁村や農村に住む村人たちが長年着てきた服、時間の経過を感じさせる使い古された素材感が最新ルックには現れていた。服の縫い目を太い糸で粗く縫っているステッチには、服に落ちている暗い影が感じられてくる。風雨に晒され、長い時間に晒され、朽ちていく服。しかし、新しい服を買うだけのお金は持っておらず、本来なら捨てるべき服を、何度も何度も拙い技術で継ぎ接ぎして着てきた。そんなイメージが掻き立てられる、まさにマルジェラ伝統のポペリズム(貧困者風)ルックだ。

僕は2021AWオートクチュールコレクションを見ていると、ジャン=フランソワ・ミレー(Jean-François Millet)の絵画を思い出してきた。ミレーの絵画は神聖な風景や人物が描かれているわけではない。農村や農民の生活に焦点を当て、その風景に滲む光と影も同時に描く。通常なら、そこに美はないと思われていた風景と人々で、絵画のモチーフになり得ないもの。だが、ミレーはそこには美があるのだと訴える。ミレーの絵画と共通する美が、このコレクションには感じられるのだ。まるでガリアーノがミレーの生きた1880年代フランスの農村風景を、筆と絵の具の代わりに、布と糸で服に表現したかのようだ。

この方向転換は、1シーズンで終わるわけではない。オートクチュールコレクションの発表から約2ヶ月後、新たに発表された2022SSコレクションでも、ミレースタイルと呼べるコレクションは継続された。

オートクチュールに続いて壮大な物語的コレクションがお披露目される。歴史上の海上で行われた享楽、けれどそれは貴族のような上流階級とは違う、世界の歴史の影に隠れた人々の享楽が表現されたような影と質素が迫ってくる。

洗練という言葉は浮かばない。もちろん贅沢という言葉も過らない。そういったお金と余裕を用いたエレガンスとは隔絶された、貧しさの中で育まれ、人々が愛し、楽しんできたエレガンス。そういう類の美意識が、このプレタポルテコレクションには表現されている。ポペリズムな空気はしっかりと服に継続されて残り、上質な素材で極上に仕立てられた服とは全く異なる服だ。

その服一着だけでは、もうこれ以上着ることは叶わない。どれだけ手直しを施そうとも、服として再生することは不可能。しかし、そんな服を分断して見ることで、使えるコンディションの素材箇所、袖やポケットといったパーツがある。そのような服が何着もあり、使える箇所の素材を裁断して選び出し、ボロボロになった後身頃だけを外した身頃に、別の服の良好な素材とパーツを縫い付けていく。最高の技術ではなく、自己流の未熟な技術で。

そのような過程で生まれた、ミレーの世界観と通じる世界観の服。いったい、どんな服を思い浮かべるだろうか。縫い目は曲がり、裁断した生地端をほつれないようにかがった糸は粗く、縫い目の大きさも歪。最高級の服とは決して呼べないだろう。だが、僕は美しさを感じた。ラグジュアリーとは違う価値観の美しさが、そこにはあったのだ。

かつてガリアーノが「クリスチャン・ディオール(Christian Dior)」で披露していたコレクションは、ヒストリカルでダイナミックだった。ガリアーノがヨーロッパの歴史をタイプスリップし、その時代その時代でガリアーノが面白いと思った服をかき集め、大量に収集した服を融合させ、歴史の壮大さと迫力を感じさせるコレクション。ガリアーノが拾ってきたイメージのオリジナルが、貧困者風であったとしても、ディオールが誇る最高級の素材と技術で仕上げているために、どうしても完成したコレクションからは、煌びやかで派手な贅沢さに溢れていた。それがディオール時代の、僕にとってのガリアーノだった。

だが、ここ2シーズンに渡ってガリアーノがメゾン・マルジェラで見せるデザインは違う。歴史的物語的イメージは、ディオールと変わらない。しかし、服の仕上がりそのものはディオールとは対極の貧しさと拙さを感じさせる服。それはまさに、マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)が1990年代の終わり、過剰で過大なエレガンスが世界を覆った1980年代へのアンチテーゼとして生み出した、ポペリズムそのもの。だが、ガリアーノのコレクションはマルタンよりも歴史衣装的な匂いが強いポペリズムだ。ディオール時代とも、マルタンとも違う世界がここに誕生した。

ガリアーノは自身の原点に立ち戻りながら、その表現方法をメゾン・マルジェラのDNAに即して行った結果、完成したコレクションはガリアーノらしく、かつてのガリアーノとは違う新しさを備えたクオリティに到達する。ディレクター就任以降、ガリアーノはメゾン・マルジェラのDNAを尊重したコレクションを発表してきた。その姿勢は継続しながら、ガリアーノは自分の世界観濃度をより濃くして、コレクションに新たなるニュアンスを吹き込むことに成功したのだ。

そうして生まれたコレクションに、僕はミレーの絵画と同じ美しさを感じたのだった。

美しさの価値観は一つではない。世間一般で醜いとされているものに、美しさを感じる人もいるはずだ。ガリアーノは世界から異物を排除しない。歴史を物語的に繋ぎ合わせ、迫力あふれるファッションに生まれ変わらせる特異な才能で、ポペリズムなエレガンスを僕らに突きつける。驚く僕らを見て、ガリアーノは微笑んでいるように思えてくる。創造性の欠乏などという言葉は、ジョン・ガリアーノの辞書にはない。

〈了〉

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