過去の美しさを尊ぶアーデム

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AFFECTUS No.305

ハイネックの白いカットソーの上から、ダークカラーの表面に黄色い花々と緑の草木が咲き誇るオープンカラーの半袖シャツをレイヤードし、シャツの裾はウエストを包み込むカマーバンドの下に収まり、モスグリーンのパンツは端正なストレートシルエットを描き、無駄というものがスタイルの中にない。

男性モデルはパンツのポケットに両手を入れ、足を交差させ佇む。彼の視線はこちらを見据えているのか、それは定かではない。凛々しくも憂いのあるモデルの様子が、「アーデム(Erdem)」のメンズコレクションを引き立てる。ウィメンズウェアで古典的美しさの魅力を披露してきたロンドンの俊英は、メンズウェアでも変わらぬ輝きを放つ。

モードは常に時代の最先端を探求する。デザイナーたちが創造性の限りを尽くし、未だ見ぬ新時代のファッションを模索する姿はコレクションとして形になり、僕は幾度となく魅了されてきた。才気が爆発するエネルギッシュなコレクションはいいし、冷めた質感と空気が洗練されて美しいミニマリズムも相変わらず僕には魅惑的で、ファッション常識の美意識を揺さぶるエレガンスが現れたファッションには、あまりの刺激に冷静さを保つことは困難だ。

そうして僕は、数えきれないほどのモード体験を重ねていくうちに「過去の美しさ」というものにも惹かれていく。刺激ばかりでは刺激を受けなくなっていく。これが人間全般に言える特徴なのか、はたまた僕個人における固有の特徴なのかはわからない。だが、鮮烈な印象を覚えない服に、心揺さぶられる。服が先鋭的ではなくとも、服から得られた体験はモードそのものだった。

ある時代のある人々から美しいと思われてきた服。アーデムのデザイナー、アーデム・モラリオグル(Erdem Moralioglu)は、過去のエレガンスを尊重し、古さを保ったまま美しさを洗練させる手法に長けている。

アーデムのメンズウェアから受ける印象はクラシックだ。ブルー、ブラック、グレーなどが褪せた色味で交差するチェック柄のニットは毛羽立ち、古さの美しさを尊く訴える。亡くなった祖父の遺品から見つけたニットを、孫の若者が現代に着る。このニットルックには、そんなイメージが掻き立てられる。そのイメージは、決して珍しいものではない。いつの時代でも、どこかの国で、どこかの家族に見られる思い出だろう。

モードは他にない個性を持つことが重視される。これまでに見たことのない個性こそが、最も価値がある。その点で言えば、アーデムに際立つ独創性を感じることは難しい。いずれのルックにも、以前にどこかで見たことのある記憶が蘇る。しかし、僕はその体験に心地よさを覚えた。

もう一つ、印象的なルックに触れたい。くすんだイエローのクルーネックニットの上に、同色同素材のカーディガンを羽織り、インナーのニットの裾を冒頭のルックと同じくカマーバンドの下に収め、これまたストレートシルエットのダークネイビーのパンツを穿き、男性モデルは足首をレザーシューズの隙間からわずかに覗かせる。僕はニットの裾をボトム(正確にはボトムではないが)に入れることに「ダサさ」を覚えた。

アーデムのメンズコレクションは、スタイリングがどこか前時代的で、ダサさを感じることがある。だが、ダサさを感じたとしても醜くはない。18世紀か19世紀か、時代は定かではないが服装史に残るヨーロッパ貴族階級に見られた服装のエレガンスが、アーデムのスタイルからは感じられてくる。

「古さを覚えても、醜くさは覚えず、美しさを覚える」。

僕にとってのアーデムの魅力は、この言葉に凝縮される。

ある時代で価値があるとされたものを、後年の時代の人々が嘲笑することがある。

「よくあんな服を着ていたな」。

といった具合に。しかし、この行為はいささかフェアではない。ファッションの価値は時代が決める。

エディ・スリマン(Hedi Slimane)のロック&スキニーが世界中を席巻した2000年代初頭に、もし現代のトレンドの中心であるビッグシルエットを着て街を歩けば、嘲笑の的となるだろう。今僕たちが魅了されるファッションが、20年後の世界では価値がないことも十分にありえる。

古さを美しく保つことはできる。ただし、才能に委ねればという条件付きで。当時の価値観のままではなく、今を生きる僕らの感性と適合させる解釈をデザインに施し、過去の美しさを現代に伝え続ける。この才能と、技量を持つデザイナーがアーデム・モラリオグルという人物である。

〈了〉

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