AFFECTUS No.449
先日、「SSENSE(エッセンス)」にて私がライティングしたエディトリアル、「仮想と現実:トロンプルイユで見せるジーンズの経年変化」が公開された。このエディトリアルに書いた導入部分は、最近のファッションを見ていて、私が気になっていたことを取り入れて書いたものである。今回は、エディトリアルのイントロには書ききれなかったものを、より詳しく書いていきたいと思う。
まずは、先述のエディトリアルに書かれたイントロを読んでいない方もいると思うので、内容を補足しながら紹介しつつ、ストリートのリアルが仮想上にも存在する現代のファッションについて考えてみたい。
長らく街中のストリートが、新しいファッションの発信源だった。デザイナーたちもストリートを歩く若者たちの装いから影響を受け、最新コレクションを制作することが多々あった。しかし、時代は変わる。そこで大きな役割を果たしているのが、SNSだ。
InstagramやTikTok発のスタイルが瞬く間に世界へと広がる現象は、ストリートのリアルが、物質世界だけでなくデジタル上にも存在することを証明する。ストリートのリアルがどこにあるのか、それを問うことに意味はない。着たいと思えるファッションと出会えたなら、たとえSNSの中であっても、東京やロンドンの街中であっても、そこが現代のリアルストリートだ。
あらゆるものがフラットになった世界では、服のデザインにおいても、アイテムの境界が曖昧になる。中でも今、注目したいのはトロンプルイユとジーンズの組み合わせ。騙し絵プリントのトロンプルイユは昔からある技法で、デザインの手法として特別珍しいものではない。むしろ現代では、少々古めかしく感じるテクニックでもある。一方、ジーンズは数シーズン前から久しぶりにトレンドとして浮上したが、2000年前後の人気が嘘のように、モードシーンでは長い間ジーンズは時代を牽引する注目アイテムではなかった。
トロンプルイユとジーンズはファッション界では昔からある、お馴染みの技法とアイテムだが、この二つを組み合わせたジーンズが現れてきた。「ボッテガ ヴェネタ(Bottega Veneta)」はほどよく色落ちしたジーンズに見えて、素材はレザー100%を使ったプリントジーンズを発表し、「アワーレガシー(Oure Legacy)」は生地にダメージを与えるのではなく、糸のほつれをプリントしたジーンズを制作する。
これらのアイテムは、ストリートのリアルが現実の街やインターネット上にある今なら、モダンデザインとして受け入れられるのではないか。仮想と現実の狭間を、騙し絵の橋が繋ぐ。リアルとデジタルが当たり前のものとして暮らす今の私たちなら、その橋をきっと自由に行き来できる。
人々の感覚、社会が変化したことで、かつての服に新しさを覚えるようになるのがファッション。1980年代にクールだとされたファッションが、1990年代にはダサいと評価されるが、2020年代が訪れるとカッコいいと思われ、人気スタイルになる。このように、ファッションの美しさには周期があるのだが、現代の特徴はファッション的には以前もカッコ悪いと思われていた服が、今はカッコいいと思われ、トレンドとして人気になるということだ。
お父さん的スタイルの「ダッド ファッション(Dad Fashion)」は、若者たちが着ることで新鮮な魅力を持つようになった。着る人が変われば、服のイメージも変わり、最新ファッションとなる。これからも、特定の人々のスタイルとされていたもの、しかもファッション的に美しいとは思われていなかったスタイルが、現代の人々が着ることで視覚インパクトを持つようになり、人気になることはあるだろうし、あるシチュエーションでしか着られなかった、エレガントかどうか問われることもなかった特定のスタイルが、街中で着るファッションとして発信され、人気になる可能性も大いにありえる。
子供服の世界観を、大人が着てもいいはずだ。年齢や性別、環境を取り払った上で、今の自分が面白いと思うファッションはなんだろうか。アニメのキャラクターが着る服に魅了されたなら、アイデア一つで日常着として着るスタイルに転換することも可能だ。「マメ クロゴウチ(Mame Kurogouchi)」と「ダブレット(Doublet)」を一緒に着たくなったなら、着ればいい。
ファッションには、新しく誕生した生活をより快適に過ごすための服を提案する側面がある。それはユニフォームと表現してもいい感覚に近い。リアルとデジタルを自由に行き来する現代の人々が、心地よく楽しく暮らせるためにふさわしいユニフォームとはなんだろうか。それはきっと一つのスタイルに縛られない、従来の美的感覚に縛られない服ではないだろうか。これまでの非常識が、これからの常識になっていく。
〈了〉