ダンディなサンローランを着て新しい自分へ

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AFFECTUS No.568

服を着て鏡の前に立った瞬間、そこに映るのは服を着る前とまったく同じ自分なのに、服を着る前の自分とは何かが違う新しい自分。デザイナーの創造性が込められたジャケットやワンピースを着る。ただそれだけの行為で、自分の新しい姿が生まれてしまう。

「うわ!こんなふうになるんだ!」

そんな感覚を言葉にする前よりも無意識に体は新しさを感じてしまい、鏡を見た瞬間には胸が高鳴っている。思いもしなかった人間の美しさを引き出すパワーが、ファッションには備わっている。

アンソニー・ヴァカレロ(Anthony Vaccarello)は「サンローラン(Saint Laurent)」の原点に立ち返り、女性たちに潜むダンディズムという美しさを引き出す。「サンローラン」2025SSコレクションの主役はクラシカルなスーツスタイルだった。

伝説のクチュリエであるイヴ・サンローラン(Yves Saint Laurent )は、1966年に男性の服であったスモーキングジャケットを女性のファッションとして提案した。黒く艶やかなタキシードスタイルは、女性のファッションの象徴だった豪華絢爛なオートクチュールのドレスとは180度異なる服。贅沢で上品なシルエット、緻密な装飾、華やかな色使いといった、それまでファッションを彩ってきた要素を完全に排除したスーツを、サンローランは女性のための新しい服として発表することで歴史を塗り替えた。現代では、女性がテーラードジャケットやパンツを着用することは珍しいことではなく、スタンダードとなっている。サンローランは現代のスタンダードを創り出した人物だと言える(だから偉大なのだ)。

ヴァカレロが今回発表したコレクションも、ダンディなスーツが数多く占めていた。ただし、メゾン創始者のスモーキングをそのまま踏襲したわけではない。ヴァカレロは新たな解釈を取り入れる。ランウェイを歩く女性モデルたちが着るジャケットは肩幅が広く、ダブルブレステッドのピークドラペルが多い。パンツもワイドシルエットで、スマートな印象というわけではない。たとえるなら、1980年代のメンズスーツを女性が着ている雰囲気だ。

サンローランもう一つの伝説的スタイル、サファリルックも忘れてはならない。1968年に発表されたサファリルックは、男性たちが着用していたスポーティなサファリジャケットを女性たちをエレガントに魅せる服として提案し、サンローランはスモーキングに続いてまたもファッション歴史と価値観を塗り替えた。今回の2025SSコレクションでは、サングラスを掛けた女性モデルがプリーツ素材のマキシスカートに、オーバーサイズのスウェードジャケットを素肌の上から着用していた。このアイテムは明らかにサファリルックから発想されたものだろう。胸元を大胆に晒して着用するスタイルは、サンローランのサファリルックよりもずっとセクシーだ。

コレクションではもう一つ印象的アイテムが登場する。それがトレンチコートになる。オーバーサイズのアウターを羽織るモデルの姿は、映画『カサブランカ』(1942年公開)に出演した名優ハンフリー・ボガード(Humphrey Bogart)のトレンチコートを思い起こすほどにクラシカル。

今回のウィメンズコレクションからはダンディズム、クラシック、マスキュリンという言葉しか浮かばない。ショーの終盤になり、ボウブラウスやミニスカートが登場してもコレクションの印象が変わることはない。2025SSシーズンの「サンローラン」はとびっきりのカッコよさを創造した。

ジェンダーレスファッションの浸透を経て、いま時代はメンズらしさとウィメンズらしさを主張するスタイルが回帰しつつある。だが、今回のヴァカレロはモードの文脈とは反するデザインを発表したと言える。しかし、どうしてだろう。古き良き時代のメンズスーツを着た女性たちの姿は、オートクチュールのドレスを纏った女性たちに勝るとも劣らない魅力を放っていた。ダンディズムは男性たちだけのエレガンスではない。ファッションの美意識に境界が存在しないことを、ベルギー人デザイナーは私たちに伝える。

〈了〉

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