トゥーグッドが着たくなるとき

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AFFECTUS No.573

昔、『流行通信』でマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)が特集された記事が圧巻のクオリティだった。マルジェラがアントワープ王立芸術アカデミーに入学した1977年から始まり、ブランド設立の1988年から2002年までのコレクションを紹介していく年表、テキストは短いながらもファッション史的に価値のあるデザインをビジュアルと共に綴るコレクション紹介、ファッションデザイナーやエディター、フォトグラファーといったファッション業界のクリエーターからマルジェラへの質問、メゾンへのインタビューなど、記事の内容・ボリュームともに素晴らしく、日本のメディアが手がけたマルジェラ特集としては歴史的にもトップクラスだろう。

一番印象に残っているのは特集記事の冒頭で、林央子氏がマルジェラについて書いた文章だった。20世紀のファッション史から語り始め、マルジェラの服がどんな価値を持っていたのかという服飾史的視点に加えて、マルジェラの服が女性たちにとってどんな魅力があったのかというリアルな視点、自身もマルジェラを愛用した上での魅力も語り、知的でありながらエモーショナルな文章は美しいという表現がふさわしい。

中でも印象に残っているのは、新しさについて語っている文章である。以下に引用する。

「ファッションはつねに、『今』との勝負だから、『変わりゆく今』に即して、どんどん変わらなければならない。どんどん変わる流れに身を置き、つねに新しさを問われるファッションという場で、スタンダードなものを、作り出す。この戦いは、深く厳しい。何が新しさか、ということを問う先に、服とは何か、を見据える目がないと、できないからだ。それはシーズンごとに目先を変えた服を差し出す器用なトレンドセッター的デザイナーとは違い、職人的に掘り下げていって服と対話する人にしかできない勝負の領域だ」『流行通信』より

私が特に惹かれた言葉は「ファッションはつねに、『今』との勝負」という部分だ。ファッションは常に今、今こそが新しい。今を表現してこそファッション。私は林氏の書いた文章から、そんなことを思うようになった。

前置きがかなり長くなってしまったが、今回はマルジェラがテーマではない。タイトルが示す通り、ロンドンを拠点に味わい深い服を作る「トゥーグッド(Toogood)」がテーマになる。

「トゥーグッド」の服を見て「モダン」「クール」「シャープ」といった表現は浮かばない。黒・茶・白が多用される色使い、ゆとりを持たせたシルエット、ワークウェアやクラシックウェアを基盤にしたアイテムは、ファッションの最先端を表現するモードとは一線を画す。

シーズンが変われば、今を表現した新しい服が着たくなる。これがファッションだと思う。ただ、新しさを着ることから距離を置きたい瞬間はないだろうか。いつだって新しさを着たいわけではない。ここで言う新しさとは、時代の最先端という意味になる。時代の最先端、次の時代を切り拓くモードを着るにはパワーがいる。けれど、モードを着るためのパワーが自分の中に蓄積されていない時がある。そんな瞬間、野暮ったさと泥臭さが表現された服が妙に輝いて見えてしまう。そんな感情に襲われることはないだろうか。

服に洗練や華やかさではなく、野暮ったさと泥臭さを求めたい。だけど、綺麗な佇まいにも見える服が着たい。そんな心情を救ってくれる服が「トゥーグッド」ではないかと思う。

2023年5月17日公開 No.425「農夫と革新とトゥーグッド」でも語っている通り、私はこのロンドンブランドに農業に従事していた人たちの一張羅というイメージが湧く。ニューヨークや東京の流行とは無縁な新しさ。新しいとは、都市部の延長線上だけにあるものではない。別の文脈の新しさともあるはずだ。ワークウェアやテーラリングを軸に、素材と仕立てにこだわり、身体が動きやすく快適なシルエットで、生地の色は穏やかで渋い。そんなファッションの延長線上にも新しさはある。

「トゥーグッド」は癒しの服でもある。時代の先をいくモードから距離を置きたいとき、歳月の経過を覚える色味と素材感のフィールドジャケットは、救いの服となる。

〈了〉

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