「制服」としてのラフ シモンズとポスト アーカイブ ファクション

AFFECTUS No.619

ネクタイを締めた人を見れば「会社員」、白衣を着た人を見れば「医師」。服には、それを着る人の役割を映し出す制服としての力がある。ならばファッションブランドの服は何を語るのか。ユニフォームとは、誰かのルールに従うための服なのではなく、むしろ自らの所属を選び取り、着用者の内側にあるメッセージを言葉の代わりに語らせる装置だ。

ファッションブランド=ユニフォームという観点から思い浮かぶのは、二つのブランド。一つは、惜しまれながらも2023年に活動を終了した「ラフ シモンズ(Raf Simons)」。もう一つは、韓国を拠点に無彩色で若者たちを彩る「ポスト アーカイブ ファクション(Post Archive Faction)」(以下、PAF)。双方のデザインはまったく異なる。

伝統への敬意を払いながらもパンクな姿勢を示すラフ シモンズのトラディショナルウェアと、有機的なカッティングを武器に、冷たいトーンが特徴のPAFのストリートウェア。このようにデザインだけを見れば、両者は並べて語られるブランドではない。しかし、「ユニフォーム」という視点であれば両者はつながる。共通するのは、反抗や規律ではなく、「共感や帰属のかたちとしてのユニフォーム」という考え方である。

私たちは、自分の意思で自由に服を着ているつもりだ。だがその背後にあるのは、ある意思との「共鳴」ではないか?

ラフ シモンズの服に貫かれているのは感情だ。孤独、不安、怒り、熱狂――それらを直接的に語らず、むしろ服のかたちや佇まいに染み込ませる。10代の若者たちが初めて覚える痛みのような、名づけがたい感情を、シモンズはグラフィックやシルエットで可視化してきた。

「感情」によって身体の輪郭をにじませる。それが、シモンズの提唱する服だった。1990年代に発表されていたラフ シモンズの初期コレクションでは、細身のテーラードジャケットに身を包んだ少年たちが、まるで自分の身体、いや感情を持て余すように佇んでいた。その服は、誰かになろうとする服ではなく、今の自分の不安定さにそのまま応答する服。だからこそ、あれほど切実だったのだ。

ラフ シモンズには、常に「共感される痛み」があった。それは反抗や美学ではなく、自分自身の感情と共にある服である。ユニフォームという語が規律や集団性を意味する前に、まず「自分の感情をまといたい」という衝動として機能していた。

では、ラフ シモンズをまとう若者たちの姿には、何が表現されるのか。彼らにとって、ラフ シモンズは「感情を外部化する」ユニフォームだった。傷ついたままの自分や、世界に対する違和感。それらを言葉ではなく服で伝えようとする試み。言い換えれば、ラフ シモンズは「感情の記号」としてデザインされたユニフォームだったと言える。

一方で、PAFはどうか?

まずPAFの服は「線」によって人の視線を動かす。縫い目や切り替えのラインは人体の輪郭に忠実ではなく、ときに骨格の構造をずらし、ときに筋肉の流れを強調する。それは服が身体を包むのではなく、身体のあり方そのものを問い直すようにも見える。

PAFのアイコンアイテムであるダウンジャケットは、その最たる例だ。立体的なカットによるカーブを描くシームは、着ることで身体の曲線美を増幅させていく。服単体では完成しないその構造は、身体の存在を前提にした「未完成の衣服」とも言える。加えて、黒やグレーを基調とした冷たいトーンは肌の温度と対比し、着用者の身体性をいっそう際立たせる。

このようにPAFの服は機能や装飾ではなく、身体の見え方そのものにコミットしている。グラフィックに頼らず、ストラクチャーで語る。このアプローチが生み出すのは、身体が持つメッセージの具体化だ。人間の身体は雄弁に語る。その仕草、その佇まい、そこにあるのは人間の個性。PAFは従来の「服=装う」という枠組みとは異なる、身体が発する声を拾う。

ラフ シモンズが「感情」によって身体の輪郭をにじませるなら、PAFは「構造」で身体の在り方を問う。ここでラフ シモンズに投げた問いをPAFにも返してみたい。PAFの服を着る若者たちは、何を表現しているのか?

彼らにとって、この構築的な衣服は単なるデザインの好みではない。むしろ無機質で匿名性の高いシルエットが、自身の感情やアイデンティティを託すための「フレーム」となっている。言い換えれば、PAFの服は着る者が「言葉ではなく、構造で語ること」を無意識のうちに可能にする。これは、現代のユニフォームの一形態ではないか。

ユニフォームは、かつて「同じであること」の象徴だった。だが、ラフ シモンズやPAFが示すユニフォームは違う。感情で輪郭をにじませ、構造で身体を問う服。他人の視線ではなく、自分の内側にフィットする服。誰かになるためではなく、自分を信じるために着る服。制服は、もう支配ではない。選び取るものだ。着ることで、自分が語られる空白。

あなたが今、着ている服は、何のユニフォームか?

〈了〉