AFFECTUS No.639
コレクションを読む #6
ファッションショーでモデルが顔を出すこと。それは、あまりに当たり前で、疑問を抱く余地すらなかった。マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)が登場するまでは。
天才デザイナーは、ファッションの常識をあらゆる角度から揺さぶった。その一つが、モデル演出へのアプローチである。1989SSシーズンのデビューコレクションで、マルジェラはモデルの顔を布地で覆い、表情を排した。
▶︎マルタン・マルジェラ論 -1989AW-
“顔を隠す”思想の起点をたどる。マルタン・マルジェラのデビューショーは、欲望の80年代に抗っていた。
人間の「顔」が持つ、圧倒的な印象力。
それを隠すという行為は、ブランド名を記さない白いタグで、ブランドの「顔」すら消した彼にとって、ごく自然な表現だったのかもしれない。
ジョン・ガリアーノ(John Galliano)の手によって「メゾン マルジェラ(Maison Margiela)」はビジネスを拡大し、神秘性を帯びたブランドは、より多くの人に愛される存在へと変化した。その後を継いだグレン・マーティンス(Glenn Martens)は、どのようなコレクションで就任の第一歩を踏み出すのか。その答えは、メゾン創設時に時間を巻き戻すような構築だった。
2025AWのアーティザナルコレクション。登場したモデルたちの顔は、さまざまな素材と造形で覆い隠されていた。鈍く濁った金属、ひび割れた粘土、宝石のような突起。顔は仮面ではなく、別の物質に置換されていた。わずかに透けて見えるものもあったが、そこに「顔」はなかった。あくまで、衣服そのものが語る主体だった。
服のデザインもまた、マルジェラ時代をなぞる佇まいを見せた。
象徴的なのはウィメンズのルックだ。ロング&リーンを基調にしたシルエット。抑制されたエレガンスを湛えるロングスカート。そして、透明な素材による衣服の構築。どれも、かつてのマルジェラを想起させるディテールである。
では、マーティンスはどこまでマルジェラに寄り添い、どこから自らの表現を挿し込んだのだろうか。
その答えは、素材の選定にあった。
マーティンスの特徴は、退廃的な質感を帯びた素材を用いること。朽ちかけた織物、破棄された壁紙、錆びた金属のような風合い。そうした残骸にこそ価値を見出し、服へと昇華する。褪せた色彩とは裏腹に、「ワイプロジェクト(Y/Project)」や「ディーゼル(Diesel)」で発表してきたルックには、彼の退廃的な美意識が鮮烈に宿っていた。
▶︎Y/プロジェクトは捩れ、錆び、汚れる
錆び、捻れ、汚れ。それが美となる、マーティンスの原点。
今回のコレクションが照準を合わせたのは、「メゾン・マルジェラ」というブランドの継承ではなく、マルタン・マルジェラという個人の美意識だった。服の輪郭や質感を通じて、マーティンスはその原点に改めて深く触れようとしていた。
そして、このコレクションではマーティンスの武器が迷いなく振るわれた。
黄色のペイントで殴り描きのように塗り潰されたジャケット。金色のサビが浮いたようなトップス。緑がかった黒に燻んだロングコートは、ライダースともミリタリーともつかない、形の亡霊のようだった。
マーティンスは、素材へのまなざしでマルジェラの「ポペリズム(貧困者風)」を受け継ぐ。それは、「何を作るか」というより、「どう作るか」にこだわる姿勢であり、その手法がポペリズムをデカダンス(退廃)に移行させた。
創作において、「テーマ」はよく重視される。しかし、どれほど普遍的なテーマでも、その造形手法に実験性があれば、完成物には独自の生命が宿る。古い衣服から発想したマルジェラの創作がそうだったように。
マルジェラが生んだポペリズムの美意識を、マーティンスはさらに退廃へと沈めていく。
まるで「古代の壁画が、現代の衣服として蘇った」かのように。
そんな空想的な光景が、今季のルックから立ち上がっていた。
赤、青、緑を配したドレスルックも、ビビッドとは無縁の世界。色彩は濁り、ゴシックな世界観へと見る者を導く。豪奢でありながら、どこか貧しさを纏ったその佇まいには、ガリアーノを想起させる迫力すら滲む。
マルジェラの美意識を尊重しながら、自身の武器を慎重に差し挟むマーティンスの姿勢は、非常に論理的だった。だが、その慎重さゆえに、どこか安全圏に見えてしまったことも否めない。
ロジックを超えていく「何か」が見てみたい。そう願ってしまうのは、やはり贅沢だろうか。
マルジェラが照らした美の向こう側に、マーティンスはどんな「貧困の贅沢」を描いていくのだろう。
〈了〉
▶︎ジョン・ガリアーノ、最後のメゾン マルジェラ
削ぎ落とすマルジェラ、装飾するガリアーノ。