AFFECTUS No.641
ファッションが読まれる #2
デザイナーたちの創造性が表現されたコレクションは、刺激があふれている。展示会で服を見ていて、「こんな服があるのか!」と思う瞬間、僕はちょっとだけ高揚している。
「自分が着てみたい」とか、「こういう服を着る人、いいな」とか、いろんな感情が込み上げてきて、その背景にはリアリティがある。言い換えると、ただ眺めて「すごい」で終わらず、何らかのかたちで「自分の生活と関係する」と思えた時に、ファッションには人の心を動かす力が宿る。
▶︎人は素材のイメージを着ている
素材に触れて生まれる感覚が、ファッションの“リアリティ”をつくる。
ファッションにおいて、このリアリティはとても大事だ。
ただ、そのリアリティって、必ずしも「日常で着られるかどうか」だけじゃない。舞台衣装のように限られた文脈でしか着られない服だって、そこに明確なリアリティがある。
「誰かが着ることが前提になっている」
それが、リアリティを成立させる条件じゃないだろうか。
逆に言えば、「これはいったい、誰がどこで着るんだ?」と思ってしまう服に出会ったとき、疑問や戸惑いが生まれるのは自然なことだ。
そして、そういう場面でよく聞く言葉がある。
「ファッションはアートではない」
この一言には、「売れるものを作らなきゃいけない」とか、「自己満足ではダメだよね」というような、ちょっとした戒めのような意味が込められていることが多い。
概ね、その考え方に納得はしている。ファッションは、誰かが着るものであり、着られて初めて成立するものだから。
だけど、その言葉を聞くたびにふと思う。
「でも、アートだって“売る”でしょ?」
世間でアートが話題になる時は、オークションで何十億とかで落札されたときが多い。むしろ、売れないアートの方が、今は少数派なんじゃないか。アーティストもギャラリーも、しっかりと市場のなかで動いている。
▶︎ヴァージル・アブローとセカンドマーケット
売れることの“先”にある価値とは?デザインと市場のあいだを読み解く。
それに、アーティストは自己満足のために制作してるわけじゃない。アートの文脈を学び、今の社会を見つめながら、自分の問いを作品に込めている。そんな表現を、簡単に「独りよがり」とは言えない。
アートもリアリティとつながってるし、ちゃんと「届けること」を考えている。
なのに、「ファッションはアートではない」と言うときだけ、「アート=売れなくてもいいもの」みたいな印象を引っ張ってきて、ファッションに対して「そうじゃダメだよ」と言う。ちょっとその言い方は、雑じゃないかと思ってしまう。
もちろん、実際に「誰のための服?」と思ってしまうコレクションがあるのも事実だ。作り手の想いが先行しすぎて、「誰のために作るのか」をすっぽり忘れているような。
でも、そういうときに「ファッションはアートではない」とだけ言うのは、何かをごまかしている気もする。
「この服、誰かに着てもらいたいと作ったんですか?」
「自分が作りたいものだけを作って、それで満足しているんですか?」
そういう問いの方が、ずっと正確で、ずっと厳しい。
ファッションは誰かが着て、初めて完成する。だけど、それは「売れれば何でもいい」ということでもない。
僕は、ファッションもまた、社会に問いを投げたり、人の価値観を揺さぶったり、未来を少しだけ描いてみたりすることができると思っている。
「アートではない」という言葉だけで片付けてしまうのは、やっぱり少し惜しい気がしてしまう。その言葉を使う前に、一度だけでいいから、立ち止まって考えてみて欲しい。その「ファッションはアートではない」という言葉で、本当に伝えたいことが何なのかを。
〈了〉
▶︎「手取りを増やす」というコピーから考えるファッションデザイン論
言葉が変わると、発想も変わる。シンプルな表現が動かす、もう一つのリアリティ。