オムガールズが“誰かの服”を、“自分の服”にする

AFFECTUS No.642
ブランドを読む #5

「彼のシャツ、借りているの?」

そう聞かれて戸惑う時、感情の奥に潜むものは何だろうか?「服を借りている」という言葉には、どこか主体性が薄くなってしまった印象を受ける。「とりあえず着ている」「今日だけの服装」といったような。でも、着ている本人からすれば、積極的に自分が「着たい」と思って選び取っている場合もある。

▶︎パトゥのモダンガール
「カワイイは甘いだけじゃない」──着ることで更新されていく、女性らしさの新しいかたち。

もともとはメンズの服。でもこれは、誰かのものを「借りている」感覚ではない。自分で見て、自分で選んで、自分で袖を通した。そういう意味ではもう、とっくに「自分の服」になっていた。

「借りる」とは何だろう。

誰かに許可をもらうこと?それとも自分のものじゃないこと?でも自分の着る服は、なるだけ自分の意思で着たい。そうは思わないだろうか?

タクーン・パニクガル(Thakoon Panichgul)が2019年に設立した「オムガールズ(HommeGirls)」の服を見て、ふと思う。

アメリカのメンズウェアをベースにしたアイテムを、女の子たちが凛々しい表情で着ている。彼女たちが着ているブルーストライプのストライプシャツ、チノパン、ジーンズはどれも、借り物ではなく、制服のように見えた。

オムガールズのルックを見てまず感じるのは、「服の男性性」が維持されているということだ。

ワークジャケットやオックスフォードシャツは、どれも形としては明らかにアメリカン・メンズウェアの文脈にある。メンズのシャツ生地をブルマ型に仕立てたボトム、ボックスシルエットの膝下丈スカートなど、女性の服としてアレンジされた「メンズウェア」も確かにある。

しかし、それらのアイテムには「服の女性性」が全面に押し出されているわけではない。モデルの着こなしも、ウィメンズウェアのルックとしてはかなり簡素だ。短い着丈のシャツやボトムを着用している姿は、確かに肌の面積が多く見えている。だが、色っぽさとは無縁の肌見せ。溌剌として健康的だ。自分を大きく見せようとする誇張もなく、逆に中性的に溶かそうとする意図もない。ただ、着ている。それだけのはずなのに、なぜか“潔さ”が残っている。

オムガールズには、「メンズウェアを自分のものにしている女性」が浮かび上がってくる。

▶︎子供服の世界観を、大人が着てもいい
“これは誰の服?”という問いを超えて、新しい「制服」は自分で選ぶ時代へ。

誰かのサイズを借りて着ているのではない。むしろ、「そのサイズで着る」ことを自分で決めている。服に着られていないというよりも、服と対等であるような佇まいがそこにはある。

オムガールズの服は、メンズ服を「女の子っぽくアレンジする」ことを目的としていない。そこにあるのは、メンズの形をそのまま引き受けながら、着ることで関係性を更新する姿だ。似合うかどうかを他人に問うのではなく、自分にとって「この服を着るとはどういうことか」を問う静けさが、スタイルの芯に流れている。

「彼の服を借りているの?」

そう問われた時に生まれる微かな違和感は、服を「誰のもの」と定義するかという、根源的な問いに触れているのかもしれない。

ワークジャケットも、チノパンも、ストライプシャツも、男性の身体を起点に設計された服がある。しかし、それを着ることは、借りることではない。着るという行為は、選ぶという行為であり、その選択の積み重ねが、服を自分のものにしていく。

オムガールズが描くスタイルには、その選び方の強さがある。誰かから借りるのではなく、誰かに見せるためでもなく、ただ自分の意思で着るということ。肌を見せることにも、男性性を引き受けることにも、媚びがない。そこには「誰の服か」を問い直す静かな意志が流れている。

服の意味は、作られた時点ではまだ不完全だ。誰が、どこで、どう着るか。その関係のなかで、服はようやく完成する。

借りていたはずの服が、いつのまにか「制服」になる。借り物ではなく、憧れでもなく、自分で着るという選択。そのささやかな行為が、ファッションを自分の言葉に変えていく。オムガールズは、そんな役割を担う。

〈了〉

▶︎サステナブル・パンク、主張しないエムエフペンの反抗
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