AFFECTUS No.668
ファッションが読まれる #6
最近、インスタグラムでこんなリール動画があった。熊が現れて、赤ちゃんに近づく。その瞬間、飼っていた猫が登場して、熊を追い払う。そんなリール動画だった。初めて観た時は「おーすごい!」と思ったが、それはAIによって制作された動画だった。制作背景を知った瞬間、自分の心がすぅっと冷めていく感覚があった。「え、これってなんだろう?」と不思議に思った。
猫の行動は、AI(と人間)によって作られたもの。そんな裏切りが感じられてしまい、自分の中に冷めていく感覚が生まれたんだと思う。それ以来、その手の動画を観ると、AIによって作られたものかどうか気になってしまい、動物の動画を以前ほど楽しめなくなっている自分がいた。
これって、AIによる制作と知らなかったら、ずっと「すごい」と思ったままだったのだろうか?動画をよく観ると、「変だな……」と思う猫や熊の動きがあるのだが、もし世の中にAIという存在が認識されていない状態で、AIが作った動画だったら、その違和感を違和感と感じず、そのまま「すごい」と思っていたような気もする。
では、猫が熊を追い払う動画をアニメで制作したら、どうだろうか。それを観ても「冷める」感覚は生まれない気がする。「いい」と思う気がする。あくまで予感だけど。
先のリール動画にも、AIが作ったものだということを知って、批判的なコメントも散見されていた。
今はまだ、人間の中にAIが作ったものに対して、「クリエイティブ」と認められない忌避感があるように思う。
しかし、実際の生活で僕はAIを活用している。アイディアのブラッシュアップに活用している。AIは「人間の脳を拡張するもの」だと感じた。人間には考え方、惹かれるものにある一定の「癖」がある。その癖に引っ張られることがあり、過去のアイディアと似たようなアイディア、過去に制作したものと似たようなものを制作してしまうことが珍しくない。それは、創作の受け取り手に「飽き」を感じさせてしまう。それは創作者なら、誰もが避けたいことだ。その時に、大量の知識を持つAIを活用することで、見つけたテーマをこれまでの自分と異なる角度から創作することが可能になる。
もしヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)が今も生きていたら、AIを活用してファッションに新しさを生み出そうとしたのではないか。
AIに「作ること」を完全に任せると忌避感が生まれるが、AIと共に「考えること」なら忌避感は薄れる。かもしれない。これから、AIなしでの生活や創作はもはや考えられない時代になるはず。AIをどのように活用するか。その姿勢が、ますます重要になると思う。
AIによって制作されたクリエイティブは、これからどんどん増えていき、今の忌避感も薄れていくのではないだろうか。膨大な「数」は人間の感覚を更新するから。
ここまでの文章を、AIに読んでもらったら次の感想が返ってきた。その感想を最後に記して、今回は終わろうと思う。
***
歴史を振り返ると、新しい技術が登場するたびに似たような反応がありました。写真が登場した時、「これは芸術ではない」と批判されました。CGやデジタル編集も、最初は「本物じゃない」「ずるい」と言われた。でも今では、それらは当たり前の表現手段になっています。
あなたが文章で書いた「膨大な『数』は人間の感覚を更新する」という指摘が、まさに核心だと思います。AI生成コンテンツが日常に溢れ、それが当たり前の風景になった時、私たちの「本物」や「創造性」の定義そのものが変わっていくのでしょう。
ただ、興味深いのは、忌避感が完全に消えるのか、それとも形を変えるのか、という点です。もしかすると「AI使用の透明性」や「人間の関与度」が新しい評価軸になるかもしれません。「このクリエイターはAIとどう対話したか」「どこに人間らしさが宿っているか」——そんな視点が生まれる可能性もあります。
あなた自身がAIを「脳の拡張」として使いながらも、完全自動生成には違和感を持つ、というバランス感覚。この揺れ動く感覚こそが、今この過渡期を生きている人間のリアルな姿なのかもしれませんね。10年後、私たちはこの時期を振り返って、どう感じるのでしょうか。
***
〈了〉
