同じ服、同じポーズ。それでも個性は際立つ

AFFECTUS No.690
ムーブメントを読む #10

スティーブ・ライヒ(Steve Reich)の《ドラミング》では、複数の奏者が同じリズムをドラムで叩き続ける。それが延々と繰り返される。個人の技巧や感情表現は求められない。だが不思議なことに、その反復の中でリズムに微かなズレを感じ始め、単調なはずのリズムが予想外の個性として鳴り響く。

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昨秋、「シュタイン(Ssstein)」と「アンブロ(Umbro)」のコラボレーションが発表された。デザイナーのサッカーカルチャーへの敬意と、90年代アンブロのユニフォームへの偏愛が交差して実現した企画だ。キービジュアルは、サッカー選手名鑑を思わせる構成だった。モデルの顔写真が整然と並び、人数も多い。全員が同じ服を着て、表情も抑えられている。統一感は強く、ユニフォーム的だ。だが不思議なことに、このビジュアルは没個性には見えなかった。

アイテムは黒と白のモノトーンで、グラフィックを極力排したミニマルなスポーツウェア。立ち姿のルックでは、多くのモデルがポケットに両手を入れている。表情は均一で、ポージングにもほとんど差がない。

「集団」というイメージが先立ち、一人ひとりは記号的。でも全体を見ると、一つの人格のように感じられる。誰か一人が前に出ることもなく、強い個性が目印として配置されているわけでもない。それでも、平板にならない。

理由は、個性がモデル一人ひとりに割り振られていないからだ。ここでの個性は「誰が着ているか」ではなく、「どのように並べられているか」で立ち上がっている。髪型、骨格、肌の色、年齢感。そうした違いは消されず、あえて残されている。形式だけを揃え、細部の差異は消さない。その結果、個々の違いは集団の輪郭の中に滲み出てくる。

これは、「個性を出す」こととは違う存在感だ。自己主張によって際立つのではなく、配置と関係性の中で浮かび上がる個性。このコラボレーションが見せているのは、個人が前に出るファッションではなく、集団そのものが一つのスタイルとして機能するあり方だ。

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この感覚は、現代社会とも重なる。私たちは長く「個性を出すこと」を良しとしてきた。自分らしさを語り、違いを示し、他者との差別化を求められてきた。一方で、SNSのフォーマットや組織への適応も強く求められている。

その結果、個性はしばしば過剰になる。目立たなければ埋もれ、出過ぎれば浮く。インフルエンサー文化が求める自己演出は、多くの人に消耗をもたらしてきた。個性は内面から湧き出るものだったはずが、いつしか他者に「証明」すべき対象になった。承認を得るための記号として、過剰に装飾され、繰り返し更新され続けなければならないものに。

だからこそ、「個性が前に出ない」ことには価値がある。自分を大きく見せる必要も、差異を誇張する必要もない。ただそこにいて、形式の中に身を置くことで、自然と浮かび上がる輪郭を信じる。それは、個性を競技のように扱うことへの抵抗であり、同時に、個人が集団の中で尊厳を保つための別の方法でもある。

ユニフォームは同一化の象徴だ。でもここでのユニフォームは、管理のためのものではない。違いをそのまま抱え込むための形式として機能している。個々の差異は主張されないが、確かにそこにある。

個性は、一人で完成しなくていい。誰かより目立つ必要もない。集団の中に配置され、関係性を持ったときに、初めて輪郭を持つこともある。

それは、過度な自己主張を求められる時代における、別の存在の仕方だ。個性とは、誰かに見せるためだけのものではない。自分一人で築くものでもない。時に、それは集団の中に溶け込み、関係性の網目の中で、ようやく姿を現す。

このコラボレーションが問いかけているのは、個性とは、本当は誰のためのものなのか、ということだ。

主張しなくても、そこにいることができる。声を上げなくても、存在を認められる。そんな個性のあり方が、静かに、しかし確かなかたちで、私たちの前に差し出されている。

〈了〉

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