AFFECTUS No.233
布の量感を楽しめる服が好きだ。柄やロゴは皆無で、生地の色と量感に魅せられる服を愛していると言ったら、大袈裟かもかもしれないが、自分の所有する服が無地ばかりであることを確認するとやっぱり愛しているのだろう。
強烈なインパクトなんていらない。服に袖を通して鏡の前に立った時に見える布の膨らみに、美しさを感じてしまう。複雑なディテールなんていらない。身体の上で形作られた布の美しさを引き立てる、さりげないディテールに惹かれてしまう。付属とディテールが同じジャケットであっても、ボリュームが変わるだけでまったく別の服と言えるほど印象は一変する。それほど布の量感というのは、服を特徴づける要素の中でも極めて重要なものだ。
僕が思うに、「服を楽しむ」とは身体の上で布が見せる揺らめきを視覚と身体で楽しむことではないか。そういう意味で「コモリ(Comoli)」は魅惑的な服だ。シーズン毎にデザインに変化を打ち出すことが慣習のファッション界にあって、コモリの存在感は異質である。素材や色使いが大きく変わるわけではないし、ストイックなまでに服から刺激的要素を削ぎ落として、変わることを否定し、変わらないことを肯定する服は布の量感に潜む美しさを形にして伝えている。
コモリは服だけでなく、ブランドの打ち出しにもアンチテーゼな姿勢を見せている。商品を購入するか否かの判断に、SNSで事前情報を収集することが当たり前になった現代の消費者に合わせて、ビジュアルによるアピールが先行していたファッションブランドも、読み物のコンテンツをブランドサイトで発表し始めてきた。
以前ならファッションブランドのウェブサイトは簡素なコンセプト文とルック写真を載せたシンプルな構成が多かったが、現在「マメ・クロゴウチ(Mame Kurogouchi)」や「アンドワンダー ( and WANDER)」といった人気ブランドは、ファンの興味・関心を作り出すために読ませるコンテンツを製作してアップし、ブランドサイトをメディア化させている。
しかし、コモリはそんな時代の流れを無視するように簡素なブランドサイトを作っている。ブランドのニュースを伝える〈INFO〉を見ると、商品の入荷情報を簡潔に伝える文章や営業時間の案内ばかりが羅列され、内容は無味乾燥だと言っていい。もちろん、ブランドの背景や文化を伝えるコンテンツは皆無。その姿勢はコレクションで発表されるビジュアルにも共通している。コレクションのビジュアルといえば、モデルたちの顔を写したものが当たり前だ。
しかし、コモリは違う。モデルの顔を隠すビジュアルを撮影し、ファッションビジュアル特有のエレガンスが断ち切られている。しかし、人間の印象を特徴付ける大きな要素であるはずの顔がカットされることで、見ているこちら側の意識はモデルの着用している服=コモリへと集中していく。
南青山にオープンしたコモリの直営店にしてもそうだ。僕はショップを訪れて内装を見た時、呆気に取られてしまった。コンクリートの床と壁の空間にラックを置いて服を掛け、巨大な鏡が佇むだけ。言葉にするとただそれだけの空間で、殺風景という言葉が似合う。そんな空間がファッションブランドのショップとして成立していたのだ。あそこまでファッションが持つ華やかさを断絶させたショップを、僕は久しぶりに体験した。その体験は2000年9月、恵比寿にオープンした「マルタン・マルジェラ(Martin Margiela)」のショップを訪れた時に抱いた感覚と同じだった。
コモリはファッション界が大切にしてきた常識に反していく。しかも、鮮烈な印象のデザインの服ではなく、実に簡素簡潔なデザインの服で。今、世界で重要とされることがコモリにとっては重要ではない。正直に言えば、コモリの姿勢には一昔前のファッションブランドを見ているかのような錯覚を覚える。本当は、ウェブサイトも作りたくないのではないかと思ってしまうほどだ。
服においても、ブランドサイトにおいても、ショップにおいても、コモリは語ることを避けている。徹頭徹尾、服が持つ魅力へ消費者の意識を向けるための作業が、コモリでは行われている。シンプルなデザインに反して、コモリが見せるアティテュードはアヴァンギャルドだ。時代と逆行するその姿勢をいつまで貫けるだろうか。おそらくブランドがあり続ける限り、永遠に貫くだろう。そう思えてしまう強固さを宿している。
コモリは語らない。
〈了〉