AFFECTUS No.295
ヴァージル・アブロー(Virgil Abloh)がメンターと公言するマルセル・デュシャン(Marcel Duchamp)は、どのような人物だったのだろうか。僕はアートの専門教育を受けているわけではないし、アートに没入してきた深い体験があるわけではないが、それでも僕なりにデュシャンについて述べていきたい。そのことが、ヴァージルがパイレックス ビジョンで見せたデザインを読み解く鍵になるから。
デュシャンは現代アートの始祖であり、アートを視覚で体験するものから思考で体験するものに変えた人物と言え、何度も述べているようにヴァージルがメンターとして仰ぐ存在である。だが、デュシャンについて触れる前に、まずデュシャン以前のアートについても簡単に触れていこうと思う。そうすることで、よりデュシャンの作品の価値がわかりやすくなるはず。何せ、単純にデュシャンの作品だけ見ても疑問ばかりが浮かび、「いったいこれのどこがアートなのか?」「どこに価値があるのか?」と混乱を招くだけに終わってしまう可能性が高い。
デュシャン以前のアートには、アーティストの作家性が作品として形になっており、その作品はいうまでもなくアーティストがゼロから新たに作り上げているものだ。例えば、日本の美術館で企画展を開催すると多くの人たちが来場する印象派は、現実をあるがままに再現する写実とは異なり、風景を見た際の印象、光や空気すらも筆と絵の具を使い、キャンバスに表現する。クロード・モネ(Claude Monet)やピエール=オーギュスト・ルノワール(Pierre-Auguste Renoir)の絵画を見れば、印象派の特徴を捉えることができるだろう。
このようにアートは、絵画で言えばアーティストが筆や絵の具、真っ白なキャンバスなどの道具、自身の絵画を描く技術といった具合に、道具と技術の二つを駆使してゼロから制作していく。そうして完成した絵画にはアーティストそれぞれの特徴が、色彩や筆のタッチ、構図に表れる。同じ風景を描いたとしても、描いたアーティストが異なれば仕上がりは異なる。その違いが作家性と言えよう。
ここで述べていることに、「何を当たり前のことを……」と思う方もきっといるだろう。だが、この当たり前のことを覆してしまったのが、デュシャンその人である。
1917年、デュシャンは「泉」という作品を発表する。これはデュシャンが既製品の便器に「R.MUTT」という偽名のサインを署名しただけの作品だ。「泉」をアートの展覧会に出展させようと試みたデュシャンだったが、展示は拒否されてしまう。それは当然だろう。いったい誰が、ただの便器にサインが入っただけの作品をアートとして展示したいと思うだろうか……。
「泉」は既製品の便器を使用しているので、作品をゼロから作り上げたわけではないし、アーティストの個性を表すものにサインがあるが、ただサインが入っているだけであり、特別強い作家性が作品に表現されているわけではない。しかも、「泉」のサインはデュシャンの本名ではなく、偽名が用いられている。完全に作家性が排除されているわけだ。
ここからは、僕なりの「泉」、デュシャンに対する解釈を述べていきたい。これはアートの専門家から見れば異なる内容になるかもしれないが、自由に語ってみたいと思う。
デュシャンの「泉」によってアートは「見るもの」から「考えるもの」に変わった。アートの主役はアーティストから鑑賞者へ移る。「泉」に美しさを感じることは困難だ。もしかしたら、便器のフォルムに流麗な美しさを感じ、書かれた黒いサインが便器の白とコントラストを描き、それが極めて魅力的に見えること、見える人がいるかもしれない。ただ、そういうケースや人は稀で、多くの人々が「泉」にモネやルノワールの絵画と同様の美しさを感じることは不可能だろう。
ただし、「泉」には視覚的な美しさを楽しむ代わりに、考える面白さが誕生していた。
「なぜ、ただの便器にサインしただけのものがアートなのか?」
生まれた疑問が思考を加速させていく。アートとは物事の見え方、価値観の新しさを競い合うゲームなのではないか。そんなふうに、アートを考えるものとして体験する面白さが生まれる。アートの面白さを絵画や彫刻といった作品そのものから得るではなく、自分自身の中に起きた体験から得ていく。つまり体験の転換が起きた。
僕はパイレックス ビジョンに、このデュシャン的アプローチを感じてしまう。パイレックス ビジョンには、難解で複雑なパターン、高級で上質な素材、熟練の職人が数十時間もかけて作り上げた精緻で美しい装飾など、通常ならば服の価値を高める要素がどこにもない。チャンピオンやラルフローレン(ラグビー)が売り出していた既存の服にプリントするという、ただそれだけの手法を実践しただけだった。
また、音楽やスポーツ、映画、ストリートなど、デザイナーが体験してきたカルチャーに、デザイナー個人の解釈を加えたものが従来のファッションデザインであり、アイデンティティの投影、それこそがモードだった。パイレックス ビジョンでは従来のファッションデザインに倣うように、マイケル・ジョーダンやカラバッジオなどヴァージルが好きであろう要素がデザインに用いられているが、絵画をそのままプリントするだけ、背番号というただの数字をプリントするだけという、実に単純な手法がアイデンティティの投影を弱く感じさせている。
ヴァージルは自分がメンターと仰ぐマルセル・デュシャンの手法に極めて似た手法を用いて、パイレックス ビジョンを制作したが、アーティストの作品そのものの個性ではなく、アーティストが作品制作に用いた手法に注目したとも言える。
結果、パイレックス ビジョンは人気となった。
ファッションは、高度な技術や最高峰の素材、強烈なアイデンティティの投影がなくとも、価値を作ることができる。このことをパイレックス ビジョンは証明している。
このようにヴァージルがパイレックス ビジョンで見せたデザインには、従来のファッションデザインのアプローチに対するカウンターが見られる。そのことが、僕を惹きつける。これは面白い、と。正直に言えば、オフ ホワイトやルイヴィトンを含めたヴァージルがデザインした(ディレクションした)コレクションに、ヘルムート・ラング(Helmut Lang)やラフ・シモンズ(Raf Simons)、ルーク・メイヤー(Luke Meier)のコレクションと同じようにテンションが上がる感動を、僕は一度も覚えたことがない。
ヴァージルのデザインは、完全に僕の好みとは違う。しかし、デザインのアプローチ、特にパイレックス ビジョンのアプローチは面白さを感じ、やはりヴァージルのベストコレクションはパイレックス ビジョンだと強く実感する。
このシリーズで書いてきたことは、僕が自由に解釈した内容であり、本来のヴァージルの意図とは違うことは多分にあるだろう。だからこそ、ヴァージルにインタビューしてみたくなった(通訳を通してにはなるが)。ここまで書いてみたら、パイレックス ビジョンをテーマにインタビューをしたくなった。最新コレクションを取り扱うのが常識のファッション界で、過去に発表されたコレクションをテーマにインタビューを申し込んだところで拒否される可能性もあるが、ヴァージルなら受けてくれるんじゃないかという期待も生まれる。ヴァージルはファッションの常識を壊すことを、まるでゲームを楽しむかのように楽しんでいるようだったから。
ヴァージルへの思い出を語るほどの体験を持たない僕にとって、彼のデザインが持っていた特徴について語ることが一番良いのではないかと考え、今回はこのようなシリーズを書くに至った。当初予定していたボリュームの3倍以上になってしまったが。
これからのファッションが、面白いものであり続けることを期待したい。
〈了〉