AFFECTUS No.595
先日、原稿を書きながら「感動とはなんだろう、どういう状態になれば感動が起きるのだろう」と考えることがあった。文字通り、心が何かを感じて動く状態が感動と言うなら、心が動く状態とはどんな状態なのか。それは「前提」が崩れた瞬間ではないだろうか。
人間は、世の中の物や人物、現象に対してなんらかのイメージを持っている。たとえば「昼間の空=青」といったように、ある対象になんらかのイメージを持っている状態を「前提」とし、まだ時間はお昼過ぎだというのに東京の空の色がオレンジに染まっていたら、「え?」と不思議な感覚になり心が動くのではないか。その体験は、「一瞬で高鳴る体験」という条件をつけるなら感動とは呼べないだろうが、ある種の驚きを覚えて心が動かされたなら、感動と言っていもよいのではないかと思う。
そんなことをキーボードを叩きながら考えていたのだが、先日、私が言うところの感動を覚えたコレクションが発表された。2025AWシーズンのメンズ・ミラノファッショーウィークでミラノデビューを飾った「サウル ナッシュ(Sau Nash)」は、ファッションの力で感動を起こす。
2018年にロンドンで設立された「サウル ナッシュ」は、デザイナーの体験が投影されたブランドの代表格と言えるだろう。自身の名前をブランド名にしたナッシュは、ダンサー経験を持つデザイナーだ。彼のコレクションには、スポーティ&テクニカルな要素が随所に見られる。メッシュをはじめとしたテクニカルな素材、スポーツウェアに通じる曲線的切り替え線の多用、トレーニングウェアを思い出させるスポーティなアイテムの数々と、ナッシュのデザインはスポーツ要素が強い。
だからナッシュのコレクションを初めて見た時は、スポーティな服にセクシーなムードを混ぜたデザインに面白さを感じた。一方で、ミニマルな服を好む私の消費者マインドを刺激するものではなかった。
ところが、だ。
最新の2025AWコレクションは、スポーティなパターンと合繊素材というブランドの特徴はそのままに、日常着に振ったデザインにシフトされて驚きを感じた。いや、驚きと言えるほどの強い感情ではない。
「お、いいな」
そのぐらいのささやかな感情だ。しかし、小さな感情の揺れに思えたものが想像以上のインパクトを残す。
「サウル ナッシュ」=スポーティという構図、つまり前提が私の中にはあった。だが、今回のコレクションで発表されたスポーツの要素を盛り込んだアーバンウェアに、私の中の「サウル ナッシュ」に対する前提は崩れる。
透け感のあるネイビーの合繊素材を使った長袖トップスはスポーティウェアだが、緩やかなドレープ性がエレガント。渡り幅の広いインディゴジーンズは、スポーツではなく日常着を呼び起こす。フロントがファスナー開きの合繊ブルゾンはジャージにも見えるが、色はグレーでディテールが簡素にまとまり、サイバー&ミニマルなストリートウェアのようだ。ヒップがほぼ隠れるロング丈のトップスを着用し、ルーズなシルエットで裾にクッションを起こしたパンツスタイルも、ストリート感に拍車をかける。
白いパンツとグレーのフードウェアを合わせたルックも、見事なほどにクール。もちろん、ベーシックなデザインではない。フードウェアは「サウル ナッシュ」らしく身頃のパターンに特徴があり、ファスナーがかなり脇寄りに配置され、身頃が傾いたようなフォルムを完成させていた。
ブランドの特徴であるスポーツが失われず、服はクールなデイリーウェア要素が強化されていた。新しい「サウル ナッシュ」に対する私の前提は完璧に崩れた。同時に消費者マインドも刺激され、「着てみたい、欲しい」という感情に襲われる。
もうこれは感動と言っていい。私が最も感動したコレクションの「ジル サンダー(Jil Sander)」2012AWコレクションに比べたら、感情の揺れ幅は圧倒的に小さい。しかし、少しでも心が揺れたなら、もう私の中では感動になる。ブランドに抱いていたイメージが崩れる瞬間、それもまたファッションの面白さだ。
〈了〉