AFFECTUS No.627
ブランドを読む #1
膨大なブランドの中から、見逃せない個性と戦略を掘り下げて。
5月20日、ケリング(Kering)が「バレンシアガ(Balenciaga)」の新クリエイティブ・ディレクターに、元「ヴァレンティノ(Valentino)」のピエールパオロ・ピッチョーリ(Pierpaolo Piccioli)を迎えると発表した。10年間バレンシアガを率いたデムナ・ヴァザリア(Balenciaga)の後任となる。ピッチョーリは優雅な構築美で、25年間にわたりヴァレンティノの世界観を築き続けたデザイナーだ。
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就任にあたりピッチョーリは、ブランド創業者クリストバル・バレンシアガ(Cristóbal Balenciaga)に加え、ヴァザリアをはじめとした歴代ディレクターたちにも感謝を述べた。とりわけヴァザリアの名前を2度挙げた点は印象深い。異例とも言える丁寧なリスペクトは、前任者が築いた世界観の重みに対する真摯な姿勢の表れだと言えよう。
近年のビッグブランドは、経験と知名度が十分なデザイナーを起用する例が多い。「抜擢」という表現が似合う人事が減ったことに物足りなさを覚える一方で、現在のケリングの経営状況を鑑みれば、ビッグブランド未経験の若い才能にグループの中核ブランドを任せる余裕がないことは明白だった。
起用の背景には、ケリングの厳しい経営状況がある。2024年通期の売上は前年比12%減の171億9400万ユーロ(約2兆7314億円)、純利益に至っては62%減の11億3300万ユーロ(約1799億円)。2025年第1四半期も13.8%の減収と、下げ止まりの気配はない。主力の「グッチ(Gucci)」は特に深刻で、前年同期比で売上が24.4%落ち込んでいる。バレンシアガ単体の数字は非公開だが、同ブランドを含む「その他ブランド」カテゴリーも減収傾向にある(2025年第1四半期は前年比11%減)。とはいえ、グッチほどの急落ではない。刷新するには及ばないが、手は打たねばならない。そんな状況が透けて見える。
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その中で浮かび上がるのが、「熟練の手腕」だ。ケリングが今、グループの中核ブランドに求めているのは、若さや実験性ではなく、危機を乗り切る実行力だろう。そう考えれば、ピッチョーリは最適解だった。
「フェンディ(Fendi)」で10年、ヴァレンティノには25年在籍し、2008年から2024年までヴァレンティノのクリエイティブ・ディレクターを務めてきた。2016年には、共同ディレクターのマリア・グラツィア・キウリ(Maria Grazia Chiuri)が「ディオール(Dior)」に移籍という出来事にも遭遇するが、その影響を感じさせないクリエイションを発表し続けた。
ピッチョーリのデザインに聡明さを感じたのは、ヴァレンティノのエレガンスを尊重しながらも、時代の潮流を取り入れてビジネスを成長させようとする柔軟性と積極性だった。中でも、2020SSメンズコレクションで発表した、ストリートウェアをヴァレンティノの世界観で解釈したデザインには驚く。当時のトレンドであるストリートと装飾性という二つの現象を、ストリートのアイコンであるフーディとTシャツではなく、ヴァレンティノのメンズウェアの根幹であるジャケットとシャツを軸に表現するという手法は、ピッチョーリがさらなる覚醒を迎えたと思えるほどの秀逸さ。トレンドをブランドの言語に翻訳する、ピッチョーリならではの聡明さが光った。
この知性と均衡感覚こそ、いまのバレンシアガに必要なものかもしれない。
先ほど述べたとおり、バレンシアガを含むカテゴリーは業績が落ちている。しかし、まだグッチに比べれば穏やか。しかも、ケリングはバレンシアガの売上を発表していないため、刷新をするほどバレンシアガの状況は落ちていない可能性もある。
現在のバレンシアガは、ヴァザリアが10年率いたことで確立された顧客層がある。この「デムナ・バレンシアガ」の世界観を愛し、現在の売上を支える顧客の需要から大きく外れることは、経営上大きなリスクが伴う。現在、業績不振が深刻なケリングにとって、これ以上株価を落とさないためにも、市場にこれ以上の落ち込みは見せたくないはず。
ケリングの本音はこうだろう。「売上を上げたい。しかし、これ以上は落としたくない」。加えてグッチでの反省もある。マキシマムなデザインのミケーレで売上が落ち始めていたことから、クワイエット・ラグジュアリーに対応するためにサバト・デ・サルノ(Sabato De Sarno)に転換したが、期待に反してさらなる業績悪化を招いてしまった。これを、バレンシアガで繰り返すわけにはいかない。現在、顧客ニーズを見誤ることの恐怖を最も知るラグジュアリーグループが、ケリングだろう。
ピッチョーリがフリーでいたことは、経営上の「奇跡」に近い。新生バレンシアガのデビューは、2025年10月のパリ・ファッションウィーク。これは単なるブランドの更新ではない。ケリングの命運を賭けたステージだ。
〈了〉
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今だからこそ読み返したい、ケリングの思惑と業界の期待が交錯したドラマ。