AFFECTUS No.651
ファッションが読まれる #4
SNSって、人の趣味や好みがそのまま見えてしまう場所だと思う。世界中の人が「好き」を発信していて、ファッションの「今」を知るには理想的な場所だ。カジュアルだったり、ドラマティックだったり、投稿されたスタイルに「いいね」が押されて、共感のコメントが並んでいく。
▶︎洗濯では落とせないものを、洗い落とすスカル スタジオ
レビューは他人の声。でも「好き」は自分の感覚にある。
でも、その中にたまにこんなコメントを見かける。
「ダサすぎる。よくこんな服を好きだなんて言えるな。恥ずかしくないの?」
Xを使っていたら、引用ポストで似たやりとりを目にしたり、あるいは自分がそういう体験をしたことがある人も多いんじゃないだろうか。
僕はこういうコメントを見るたびに思う。
「じゃあ、この人がいいと思う服って、どんな服なんだろう?」
過激な言葉で人の服を批判するくらいだから、自分のセンスに相当な自信を持っているはず。だったら、その服を見せてほしい。批判と一緒に「これがカッコいいんだ」「これがカワイイんだ」と、自分の好きな服を並べてくれたらわかりやすいのに。けれど、そういうコメントはほとんど見かけない。
世界のどこかにはあるのかもしれないけれど、批判と主張がセットになった言葉は、SNSではやっぱり少数派に思える。
ファッションは、人の数だけスタイルがあり、スタイルの数だけセンスがある。
誰かの好きは誰かの嫌いだし、誰かの嫌いは誰かの好きでもある。誰もがマルタン・マルジェラ(Martin Margiela)を好きなわけじゃないし、誰もがドリス・ヴァン・ノッテン(Dries Van Noten)を好きなわけでもない。ストリートが好きな人もいれば、毛嫌いする人もいる。ミニマリズムを好む人もいれば、退屈だと感じる人もいる。僕はミニマルな服が好きだが、「シンプルすぎて、面白みがない」と思う人はきっといるだろう。
僕自身、他者のファッションに対する反応も変わってきた。
20代前半の頃は、人の服を見て「ダサい」と思うこともあった。けれど、数え切れないほどのファッションを見て、それを言葉にし続けていたら、次第にその感情が薄まってしまった。代わりに現れてきたのは、「そういう服もあるんだな。面白いな」という感覚だった。
自分の趣向の外側にある服を知ることが、だんだん楽しくなっていった。
もちろん、自分が「カッコいい」と共鳴できる服に出会う瞬間は今でも嬉しい。けれど、自分の趣向とはまったく違う領域の服に触れ、「こんな服があるのか!」と未知の世界を知る時の楽しさは、それとはまた別のものだ。
強烈に怒りを感じたのは、もう10年前が最後だと思う。
デムナ・ヴァザリア(Demna Gvasalia)が「バレンシアガ(Balenciaga)」のメンズコレクションで発表した、あの妖怪のぬりかべみたいなシルエットのジャケット。最初は戸惑いと怒りしかなかった。でも、その怒りがだんだん快感に変わっていった。
「ヴェトモン(Vetements)」がクラシックをなぞるようなコレクションを出した時は高揚したけれど、すぐに物足りなさを感じた。怒りを覚えなかったからだ。もっと揺さぶってくれ、と求めてしまった。
▶︎怒りが快感になっていたヴェトモン
デムナ・ヴァザリアが問いかけた、美しさと醜さの境界線。
今の自分は、おそらく「好き」と共感できる服以上に、自分の価値観を丸ごと否定してくるような服を見たくなっている。
「いや、こんなのを好きなのは、このデザイナーひとりだけじゃないか?」
そう思える服に出会えたら、むしろ幸せだ。
その幸せを探すために、僕は今も展示会やショーに足を運び、デザイナーの言葉に耳を傾けている。もしかしたら、ファッションで一番刺激的なのは、好きな服に出会うことじゃなく、嫌いな服に出会うことなのかもしれない。いや、今の僕は「嫌い」を認識できないので、それは難しいか。
〈了〉
▶︎ランラは時間を過去に戻して現代を更新
野暮ったさを引き戻すことで、新しさが生まれる。